「くろさわものがたり」 黒澤張三著
 "Kurosawa Story" by Chozo Kurosawa
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弔詞                      中 村 幹 治 2
 黒沢さんが亡くなられたという新聞をみて驚きました。だが考えて見るとお互様八十に近い高齢であるから枯れるのも寿命と いうべきであろう。御遺族の方には百歳までも生きて貰い度いのが人情であろうが年に不足はない筈である。 唯老人達の一致した願いは永く病床に呻吟したくないということである。

君はタイプライターの黒沢さんという有名人になられた。又近年発表される所得税番付に於いて首位に近い位置を保うて 居らるるので、この方面でも成功された人である。併し私の信ずる所ではそのような通俗な名誉と利益には寧ろ淡泊であって、 諭しみは別にあったと思う。君の米国で作られた仮名字のタイブライターを日本の電信に利用するという夢をもって帰朝された 時に機未だ熟せず、多年別方面に進展を計られたが、幾年の後新にテレタイプの時代となり,昔の夢を再現する情熱が日本式 テレタイプを完成させたのである。

 宿願の完成した喜びは他人のうかがうことのできぬ愉しさであったと思うのである。かくして国家に貢献され, 利潤の生ずるのは自然の成行に過ぎないから、増産を要求されても之に応ぜず単価の値上げさえも断わられたとの噂さがあり、 唯々密かに夢の達成に満足して居られたように思う。

私は君との関係に於て只一知人に過ぎない存在であるが,何となく意気相投ずるところあったというか, 君の一般的社交の線を超えて種々御高説を聞く機会があったと思うのである。

初めてお目にかかったのは明治三十八年頃京橋弥左衛門町かにお店を持っていられた時、 野田正一君と私が共同で数寄屋橋に開店した碌々商店が発展の為新肴町に移転し、僅か六七軒の隣家となって エリオットプックタイプを一台分けて頂いたのが最初の縁で、懇親を加え君の手づからの西洋料理に招かれた記憶がある。

銀座尾張町の今井商店が悲境に落ちた時,碌々商店の取引関係で,債権者会議に野田君出席して, 地所家屋を処分して整理するということになり、碌々で買ってはどうかと言われたそうである。機械屋に銀座の表通りは必要がない, 黒沢さんに好適だと思ってお話をして、この銀座の御店が出来ることになったのである。

黒沢さんは純粋の江戸っ児である。そして米国で生活方式を作ってこられたから,日本風の愚痴っぽい無駄話は大きらいであった。 友だちと話をするにも,一般には適当なユ一モラスなたねを用意して居られたように思う。 蒲田へ帰る電車の中で酔って眠り横浜まで持って行かれ目がさめて反対側に飛び移ったら,それが東京から今着いた電車で、 眠っていた方が東京行であった。到着しても醒めない客はそのまま秉せて戻る積りらしいなどという話は度々衣がえして伺いました。 そういう君が偶然の機会に於て、私に幼時から苦労された経歴を語られたことがあった。 恐らくは君としてはめずらしい事でないかと思うのでここに御話を偲んで見たいと思うのである。

銀座のお店が出来て何年もたたない頃かと思う,夕飯後お店の前を通ると店の人、数名を集めて 君が何か説教して居られるので一寸寄ってみたら丁度よい所に来た,まあ私の言う事を聞ふて呉れというのがはじまりで, 君の経歴を君自身から聞かされたのである。その動機というのは,君が幼時小僧奉公中に勉学が出来なかったので 店員には夜学の便を与えるという私の同情を無視して雨が降ったから休む少しばかり頭痛がするから休むと欠席ばかり している。そんな学問きらいな連中はみんな退学せよというていたのだ。どうです心がけがちがうでしょうということであった。
君は幼時日本橋の薬問屋に小僧に入った。時代は英語が必要になってくると考えて一年二回藪入りの時に小遣として金二十銭を貰う。 それで英語の独案内を買って暗記する。石油ランプの二分芯という最小型のものを求めて二階に置き夜八時頃お休みなさいというて 二階へ上ると、そのランプで独案内を読み、覚えにくい字は腕をまくって奥の方に書附け置き、 翌日お医者さんへ薬を届ける荷車を引きながら之を暗誦したそうである。

然るに一度御主人が之を見つけ生意気だというて本を取り上げ,時間があり過ぎるからだと九時まで売薬の印紙はりを手伝わされた。 君はそんな理不尽な圧迫に負ける人ではない。又本を買いランプを求めお蔵の三階に置いて 就寝前一、二時間は三階でかくれて勉強をつづけたという。

かくして年期が明けて二十一の徴兵検査がすむと愈々お店の番頭格に出世するので羽織袴を作ってくれるのが吉例である。 所が君はお店に番頭として止まりたくない是非米国へ渡って見たいので仕度料を現金で貰いたいと申出たそうである。 いずれ相当ゴタダタもあったろうが,とにかく望みが通って渡米することになり横浜に出てツルシの洋服を買い船賃を払ったら 一銭も残らないので、それまで着用していた日本着物と帯まで質に入れ八円を得て船中の小遣としたという。その頃は見せ金など 必要もなく渡米は楽であったし、独学ながらバーレーの英国史が読めたというのだから大したものである。

太平洋岸に上陸して先ず,芋ほりをやった。連中は移民同様で労働者だから英語の通じる君は直ちに斑長ということで専ら 雇主との交渉に当り,一人から毎日十仙づつ支払う慣例で,十数人の斑には数十仙の収入と,体力はないから仲間の半分の賃銀 としても合計は多くなるという事であった。

そのうちに農事の手伝いよりも鮭漁の方が収入がよいというので更に北上して働いていたら多少の貯金が出来た。 時恰も紐育行きの鉄道が三線共に競争をはじめ,東へ東へ二十五弗という宣伝であったから此の時とばかり紐育に向った。 例のブルクリン橋上を行李をかついで渡った田舎者さと笑われた。

紐育では家事手伝いに廻るうちエリオット氏に気に入られ同家に継続して働くことになり, 一年ばかり過ぎると学校へ通わしてやるということであったが,君はあなたの工場へ入れて下さいと頼みブックタイプライターの工員と なられたのである、とこれがその夜の御話である。

 君はそれよりタイプライターの製作に通暁して日本仮名字のタイブライタ−を作り,之を電信に利用したらぱと考えて, 逓信省に見本を提出したら有望だということで大きな夢を抱いて帰朝されたのである。 然るに仮名字タイプライターは電信用として数台の見本位の買上げで君の夢は実現しなかったのである。

従って君の苦労も一方ならぬものがあって,一般のタイプライターと事務用文房具に新らしい進路を作られたのである。 君の才能と信念は着々と実現して業務隆昌に赴き,大地震の時には蒲田工場は倒壊し,銀座の店も隣人の持ち込みたる家具の為類焼し, 横浜税関に於ても多大の焼失せるものあり全財産を失いたるやに見えたるも,君は百万円の貯金を準備して居り 即日回復にかかることが出来たと言われた。

通信機中最も時勢に後れたる電信機が改良進歩を企図せらるる時機到来して最新の頭脳により驚くに足る装置となった, その中核を為すものはテレタイプである。君の研究は昔の夢の継続であり,米国で習得された技術,仮名字タイプとの因縁, それを解決せんとする努力は君の情熱によって実を結ぴ今日工場の主要な製品となったことは当然である。

君は物を製作さるるに当って能くその使用上の要点を研究された。それゆえに日本人の偽造が上手だといわれるような外見にとらわれず, 使用上不満足の起らぬことに全力を尽された。

カードの寸法の厳格さその切断室の備品を見ても知ることができる。十年前のものと今日のものを合せてこばの揃うのは当然である。 帳簿の表紙の如き全くクロースに包まれて外よりうかがい知ることのないボール紙が厚い一枚でなく薄い三枚縦横交互に張り合せ. 恰もベニアのように狂を生じない用意をするという良心的工作を説明されたこともあった。 この誠実が君の成功の根元であり之に勤勉と聴明なる理想が益々効果を加えたものと思うのである。

五十年に近き御厚誼に私が時々接触をして来た因縁に故阿見左門のことがある。 私の兄が友人に頼まれたとて宇都宮中学を卒業したという栃木の田舎丸出しの青年阿見を碌々で使って呉れという。 生憎碌々では其時二人の青年を採用した直後で,私の自宅に置いて他に就職を求むることにした。君の御話によると, 舞鶴海軍工廠で英文タイピストを一人依頼されているが中々田舎へ行く人がない.中学を出て居れば一カ月位の練習で間に合うと思うから 希望があれぱ教えて見よう.その代り少なくとも三年は辛棒しなければならぬという条件で阿見がお世話になったのである。

一ヵ月位の練習と言われたものを二十日間で卒業し、朝八時から五時迄の間昼食に十五分を休むだけという努力を買われたか、 四五年後には黒沢商店の人となり,その誠実,正直.忍耐という点で君の御信用を受けたらしい。その後十数年後胸を病み死亡してしまった。

遺族として末亡人と二人の手供があった。君は態々会社に私をお訪ねになり,故阿見の為に遺族を社宅に止め、 一般社員も忠実なる永勤者にはこの位までの待遇をしてやるという最大級の取扱をしてやる。未亡人は裁縫が上手であるから、 多少の内職も出来るから何とか生活を続け得ると思うが、これ以上は私に然るべく指導せよとの御話があり、 勿論お引受けをしたので以来二十年彼等は幸福に生活し子供は電話局の技官として成績もよく、君の恩恵に感謝感激の念を忘れたことがないと 信じている。

君は信念の強い方であったから相当にワンマン振りを発揮されたが一面阿見の場合のように忠実な者には情に厚い所があったりで私としては 大に敬意と謝意を持っていました。今日この告別式に際し君を偲び深く追悼の意を表したいと思う次第である。             昭和二十八年二月二日
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黒澤貞次郎さんの追憶       大内誠三 3
 あの見るからに何時もニコニコとした温顔の黒沢さん,日本に於ける平仮名タイプの開祖であり,また和文タイプライター の製作者として,また国産印刷電信機の創造者として我が国の電信事業に偉大なる足跡を残した黒沢さん,一大家族主義を以って 他に類例を見ない労資協調融和の楽園たる理想的模範工場と経営をうちたてた黒沢貞次郎氏が逝かれたことは,斯界にとって 洵に惜んでも余りあることで,ここにその偉業を追憶して氏を偲ぶよすがとしたい。

 たゆまざる努力の―生
氏は明治8年1月5日水戸に生れる。間もなく東京に出られたが、年少時代の逆境は氏をして独立発奮の志を立てられたらしく, 小学校在校時代の或る時「猫が鼠を噛む」という字を先生から書かされた時,満足に書けなかったという一事は, なぜこんな難しい字を覚えねばならぬかということで,国字に対しての深い関心を持たしめた動機となり, 先進国と云われたアメリカに渡って青雲の志をたてることとなったのである。
16才の時シアトルに渡り、次いて待望のニューヨ−クに行き、艱難辛苦をなめて独学自修中,たまたまタイプライター製作所に職を得, ここで氏独特のねばりと不屈の精神で昼夜の距てなく働いた。その精勤と着眼と勉強ぶりは賞讃の的となったが、「門前の小僧 習わぬ経を読む」のたとえで、俊敏な氏はタイプライタ−の製造,修理法を手引される内もう一応の理論と仕事を覚えていた。 そのうちフト脳裏をかすめたものが小学校時代の出来事である。日本字でも文字を打つ機械が出来たらどんなに便利であろうか, 英文タイプライターでも頭文字やその他の記号を含めると50音と同じ数字になる,こうこして撓まざる努力と研究を重ねた結果, 遂にニューヨークのエリオント・ハッチ工場で同社と協力して日本文字平仮名タイプライターを作り上げた。 これは明治32年8月3日の時事新報に仮名文字の写真と共に「日本字のタイプライター」という表題の下に掲載されてある。
  明治34年アメリカで既に実用化に発達していたタイプライターをお土産に,日本総代理販売権をもって帰国されたのが年僅かに26才であって, 将来一般に普及使用されるに至るべきその有望なる前途に着目されたことは洵に烱眼と云わねばならない。 帰朝の翌日その販売の白羽の矢を立てたのは外務省で,何等紹介状をも持たず,飾らざる誠実な奮闘的な無名の青年の言動が痛くも当事者の 心を動かし,首尾よく一台を買上げられるに至ったのを手始めとして,縁故を辿らず,何処へでも行ってタイプライターの効能を堂々と述べ, 熱心に一生懸命販路の拡張に努力した結果,遂に明治45年今の銀座の店を完成するまでの商運の発展をみるに至った。 因みに銀座の店は氏自身で設計されまた監督されたもので,鉄筋コンクリート建物として当時は始めてのものであったという。
 氏は更に国内に於いてタイプライターの製造に志し,大正元年より現在蒲田の工場の土地買入に着手,大正7年に完成をみたもので、 現蒲田工場は大正12年震災後昭和3年に再建になったものである。
  黒沢さんと逓信省,云い換えれば我が国の電信事業の発達とは実に切っても切れない深い縁がある。 和文タイブライターの試作と採用及び国産和文印刷電信機の製作実用化の2つは氏が残した偉大なる功績と云わねばならない。
我が国の電信の進歩の一半に和文タイプライターの採用があったことは議論の余地のないところで,その発展の経過を辿ってみると, 明治44年頃から実施せられだした自動回線の現字紙テープ貼付受信方法で,自局着信となる欧文電報の翻写に欧文タイプライターを利用する 方が便利だということが考え出され,大阪中央電信局では大正3年から実施されていた。ところがその利用を更に和文電報にまで及ぼすの 利便を考えた同局では,大正6年当時日本に於ける唯一のタイプライター輸入修繕商であって,和文タイブライターの製作利用を考案した 黒沢貞次郎氏にL.C.Smith式タイプライターをもととし,これを和文電報に適するようキーボードの文字配列等を指示してその改造試作を 依頼した。
 これは大正6年4月に出来上ったので,直ちに¨実験の結果成績良好なることがわかり,同年6月21日から大阪中央電信局に於いて 和文電報翻写用として実用に供せられた。以後不便不利の点を改善改良せられつつタイプ受信は好成績をあげ, 大正13年には大阪局全回線タイプ受信となり,その好成績は他局への全面的採用となって今日では音響受信に迄広く普及されている。
 この邦文タイブライターの完成と,氏の業績は国家の認むるところとなり,御大典に際し実業界の功労者として, 昭和3年11月17日「夙二米国ニ航シテ機械工業ノ実地ラ学ビ邦文タイプライターノ製作二志シ刻苦研鑚遂二之ガ完成ヲ見ルニ至ル 爾来鋭意事業ノ発展ヲ図リ今日ノ隆盛ヲ致ス洵二実行ニ精励シ衆民ノ模範タル者トス」との主旨で緑綬褒章を贈られた。

印刷電信機の国産化    
 黒沢さんの生涯中最も著明なる功績は,国産印刷電信機の完成である。昭和15年5月1日東京日日, 大阪毎日新聞社は第2回目の大毎東日通信賞として賞脾並に賞金を贈り,日本精密科学の粋,六単位印刷電信機,欧米人の驚異の的 黒沢氏の偉業という見出しの下に同氏の業績を称えたのであった。
 これより先逓信省では,欧米に於ける印刷電信機の実用から夙に和文による印刷電信機採用に関心を持ち, 大正14年米国クラインシュミット会社の頁式テレグラフタイプライターを和文用に改造したものを購入して実験した。この成績がよかったので, 昭和2年東京,大阪始め主要都市幹線に僅かばかり実施せられていたのであるが,何分にも値段が高いのと, どうしても将来国産化せねばならぬという見地から,昭和5年その国産化問題が具体化し,逓信省電信電話技術調査会で鈴木寿伝次, 島田新次郎氏らを中心として,その型式等に関する方針を決定,昭和7年7月1日黒沢,日電,冲、安立,目端,井上の6ヵ所を招集し、 設計規格を示すと共に1カ年の購入台数を内示,6ヵ月以内に設計試作を依頼した。
この期限内に設計説明書を出したのは黒沢商店外2ヵ所であって, あとは辞退した。そこで,この6社に各1台宛の試作を依頼することになったが、昭和8年12月26日の約束の期限内に納品したものは 黒沢商店のみであった。
その頃の黒沢商店蒲田工場は電信タイブライターエ場として本邦唯一のものであって,機械に関して優秀なる腕を有する工場長庄野篤朗氏と それに逓信省より入社されて居た松尾悛太郎氏があって,松尾式印刷電信機を完成されていた。試作品はこの印刷テレライト電信機を提出 されたもので,昭和9年1月より10ヵ月間に渉り試験規格を定めて詳細試験した結果受信機はスミスタイブライターを電気的に動作 させるように工夫されたもので,実用化するには根本的設計替をせねばならなかった。
その結果更に逓信省から適当なる技術者を 派遣協力することとなり,長谷,西川の両君が選ぱれて行き,一丸となって製作に専心努力したため第2回目の試作品のうち鍵盤讃孔機及び 送信機は実用化が出来たが,受信機の方は外国特許を避けるため無理な設計をなすより外なく,遺憾乍ら実用化に迄到らなかった。
しかし乍ら黒沢氏等の努力はこれらの技術上の困難をよく克服して,昭和11年10月第3回目の試作品が提出されるに及び試験検討の結果漸く 実用機設計の見透しを得るに至り,かくして国産化計画以来5年目の昭和12年実用機が生産され,菊花香る11月3日東京, 大阪間に実用されるに至ったのである。
5ヵ年の短日月に於いて国産機の完成を見たことは外国にもその例を見ないことで, 実に黒沢氏の国産化に対する献身的奉公精神と,黒沢工場並に関係者一同の決死的努力の結果であったのである。
その後電信技術の進歩に伴い,昭和15年同工場で印刷機による自動交換方式用の受信鑚孔機の試作品の完成をみたが,戦争で一時停頓し, 遂に昭和24年その実用の実を結んだ。
 即ち氏がその愛する黒沢工場に於いて作り出したものは,6単位鍵盤鑚孔機,自動送信機,自動受信機及び受信鑚孔機であって, 6単位和文印刷電信機の国産化に成功されたことは電信用和文タイブライターの完成と共に我が国電信事業に特筆大書して 残さるべき輝しい偉業であると思う。

      製品に対する責任感
 黒沢さんと逓信省即ち電信との関係はこればかりではない,和文タイプライターの採用によりオペレータ−の電信タイプ ライター講習を黒沢工場で引受けられたことで,大正11年より昭和18年6月迄数十回に亘って行われた。 また印刷電信機の講習も昭和25年5月より18年頃迄行われた。
この間にあって黒沢氏は講習を多ける人々に対して約1ヵ月位に亘り社宅の一部を開放し宿泊,食事の世話迄も 面倒を見られたのである。
黒沢さんの作ったタイプライターで特に銘記すべきことがある。昭和6年天皇陛下が生物学御研究用としてカードの整理に お用いになるため特に字の小さいアルファベットと片仮名を打つことの出来るタイプライターを特別に作って差上げたことで, その内の1台は今尚黒沢工場に記念としてまた予備として保存されてある。
斯くの如く黒沢といえばタイプライター,タイプライターの黒沢と迄云われる程世に有名であるだけ,氏は自分の所で作り出された製品に 対しては絶対の責任を持たれると共にまた大なる自信をもたれていた。事実黒沢の製品が優秀であるということは万人が認めていると同時に, 氏は自社製品の信用ということに就いて非常に重要視されておられたのである。自分の処で作ったものは一品たりともおろそかにしない, また売り込んだものに対しても後々迄責任を持つという考えで,製品を作られた。氏は売ったタイブライターの修理のため, 始めの内は氏白身で工具部分品の入った箱を持って自らサービスに廻られたということである。現にこの小型トランクは今も工場にある。
 こんなわけで,氏の製品に対する観念は実に厳密で,タイプライター並びに印刷電信機の或る部分に対する鉄の材質に就いても, これはスェーデンの鋼でなければ駄目だ,これを用いなければ製品の信用が落ちるといった確たる信念があったようである。 これがため国産品で代用するということも氏の満足するものでなければ駄目であった。
戦時戦後の逓信省のタイブライターと,印刷電信機の需要に対し充分応じられなかったことも黒沢製品はあく迄責任を持ち,良質精巧なる 製品の供給をモットーとし粗製乱造はやりたくないという氏一流の責任感の発露であったものと思う。

     黒沢工場の模範的施設
 黒沢さんの偉業として更に特筆すべきことは,蒲田にある黒沢工場の模範的施設と氏の経営法である。即ち氏は同工揚をして子孫並びに 従業員の子孫のために永遠の安泰なる生活郷たらしめ斯界の大完成を図らんとする理想の下に,工場従業員に対しては大家族主義を以って臨み, 所謂労資の差別的待遇を行わず,最も合理的方法で経営されていた。
 国鉄蒲田駅の近くに約15,000坪を画してしようしやに装い立つ黒沢タイプライターエ揚(大田区御関町3ノ1)はあたかも黒沢村長を頂く 村落の如き観を呈し,工場員はさながら兄弟の如く和合友愛に融け込み乍ら楽しい作業に従っている。この工場は他工場に見るような 縦覧謝絶の札も厳しい門も、また門衛もない。 明るく自由に開け放たれた門から簡単な事務室受付迄どうしても工場とは思われない。 工場には応接室もなく,皆広くゆったりと場所がとってあり,その秩序整然たること清潔なこと,採光の完全なこと等はエ場として 批判の余地がなく、これら総て氏の意図の表現である。
現在の従業員は約150名で,その家族を合わす戸約400名を算するが,氏はこれに対して工場敷地内に住心地よい羨しいばかりの住宅街を 建設して住ましめてある。戦災で今は無くなったが,その教育機関として黒沢幼稚園及び小学校があり,その他娯楽室, 図書館等幾多の施政があって,子弟教育に力をつくされたことは余りにも有名である。
 黒沢工場を尋ねた人は何人も感歎をして帰るのが常であるが,その質問は何時も決まっている。
 これに対して氏は次の如きことを云われている。
工場に来られた方がきまったように何か信念があるか、資本はどうかとかお尋ねになりますが,これと云って特に遠大な計画とか, 大資本は持っていない,よくこれまでやって来たものと自分乍ら驚きもし感謝もしています。 謂はゞ一粒の良種が幸いに土地を得て温き時の恵みにより芽を吹き,これが従業員諸君の心からなる丹誠により年と共に成長して, 苗となり,水となり,枝を張り,葉をつけてご覧の通りやや大木となったのであります。
 福利施設と申しますか,学校とか住宅の経営或いは食堂の設備については出来る丈やっているつもりであって,特に,従業員 諸君に恩を施すとか何とかいう積りでやっているのでは決してありません。私は年少にして働かねばならぬ境遇に置かれました 関係上,自分等と一緒に働いてくれる方々の子弟をして曾て私が甜めたような苦杯を喫せしめたくない。どんなことがあっでも 小学校丈は満足に卒えさせてあげたいと斯様な考えから学校を作りました。
 また近くに住宅があるので,家に帰って一家団らんのうちに食事をするということは家庭愛からみて誠に結構なことで ありますが,工場の食堂で一同が一緒になり,さゝやか乍ら昼食を共にするということも一つにはお互が苦しかった昔を偲ぶ よすがにもし,また一つにはお互の親密を増すためにも幾許かの効果があろうと思っています。
 住宅につきましても以前は家賃が高かったので住宅を作ったならば従業員の方々にも多少楽になって貰えるかと1軒,2軒と 増して行ったのが今のようになったのでありまして,樹木が相当ありますのも或いは儲けて作ったのであろうと思われるかも 知れませんが、この樹木の一部分は苗木であるが他の大部分は種からの芽生であって、これまた時の恵と人の丹誠の所産に 外ありません。学校も幼稚園もここでは只生きた人間を作る基礎教育さえすればよいのだと考えております。
これらの福利施設と中しますかを作るのに一時纏った金を出したのでは決してなく,その時々に作ったので,今から顧みてもよくもまあ 出来たものと我乍ら感心もし,また驚いております。総てこれ丹誠の華であり実であって,決して私のみの功労ではありません。
 因みに云う,今でも社宅の家賃は4円,5円,15円で電気,水道代も含まれている由で,しかも家賃のとリ方は月給袋より 差引かず,各自が納めるというのも今時に珍らしいことである。従って労使間のイザコザなぞは一切起らず,父子二代はもとより, 孫迄の三代の従業員もあった由で,皆黒沢氏を慈父とあがめ,また氏は可愛い子供と考えて育まれたから,正に類例のない一大 家族主義の理想的工場である。
黒沢さんがかつて長者番付のl位,2位であったりしたのも税金を国家に対する御奉公であるという信念から卒先なされた 為であって,また経営上に於いて銀行借金はせず,手形は絶対に書いたことがないなぞは大いに考えさせられるものがある。 現在の日本に何人と数えられない稀な有徳の人であり,また我が国立志伝中に特記されるべき人であると思う。
  氏は事業に対して実に刻苦精励何事でもやり遂げるという強い意志の人であって,卒先陣頭に立たれ身を以て範を示された。 その精勤振りは1年のうち休むのは元且だけで、日曜日も祭日もなく,毎日8時半開始の工場へ必ず8時には出勤されていた。 先年大雪の時総ての交通機関の停止した時にもあの大雪の中を調布峯町の自宅から工事へ徒歩で出られたということは常人の 真似の出来ぬところであろう。

       私生活の一端
  氏の私生活は極めて質素であって,己れに薄く他に厚く永年着古した黒背広に編み上げ靴という自ら節の堅いことは有名 であり,歩くことが健康であると考えられていたためでもあろうか,決して自動車には乗られなかった。氏は食物に注意され 新鮮なものを好まれ,またよく噛むことを信条とされた。ビールは最も好まれたものの一つであるという。
 氏は聖書をよく愛読された。然し氏の宗教観は形式にとらわれず,場合,場合に応じていいと思われるものを採られた。 地鎮祭は神式でやられると思うと結婚式ぱ牧師立会で行われたりした。
 黒沢商店のユカリの地であり,古くから銀座6丁目で独特の建物だった銀座の店が,接収解除されてから氏は午後そこに 出かけられ,精根をつくして変りはてた建物を懐かしいもとのものにするべく自らコテを握って復旧修理に当られた。
この無理が御老体にひびいたものか12月末ふとして引かれた風邪が遠因ともなったものか今年正月元旦年賀に近親達が 集まられた時は殊の外上機嫌で珍らしくにこやかに笑いながら昔の思い出話や(頭書の猫と鼠の話)銀座営業所の修理 苦心談にふけられたが,惜しい哉その晩脳いっ血で倒られたのである。
然しこれは2、3日にして意識を回復されたが,無理を 重ねられた老体は回復のカ足らず,百方医療を尽されたが,遂に28年1月26日午前4時45分枕頭に集まる肉親の全部の方々に 見守もられつつ78才の大往生を遂げられたのである。
 御子息達は氏が生前水薬と称して最も好きであられたビールを父の口にふくませられた。御木本真珠翁の年迄生きると常に 言われておった黒沢貞次郎氏は功なり名遂げて天寿また必ずしも短くなかったとは申せ,君の如き尊敬すべき事業家を喪った ことは洵に国家の一大損失であり,痛惜に堪えぬところである。
 告別式は2月2日午後1時30分より思い出深き銀座6丁目の黒沢商店に於いて盛大に行われた。大島委員長の挨拶,岸田牧師の 聖書朗読,讃美歌,次で遺族総代,従業員総代,御志の方々の焼香が極めて簡潔に行われ,弔詞には日本電信電話公社総裁,東京 ロータリークラブ会長,同志社総長のものがあり,弔電,弔詞捧呈の後讃美歌があって大島委員長の挨拶があった。
その時に伝えられたことは,霊の置かれた位置はかつて故人が長年の間営業所で座っておられた所の位置であること,また霊の 白布に付けられた黒リボン上の金のネクタイピンは,最近瑞典国王70才の御誕生に当り国王の名前でストックホルム ロータリークラブより日本のロータリークラブ会員中最も貢献のあった人にあげてくれと送られて来た唯一つのものであること が公にされたのは列席者に多大の感動を与えた。
 2時より3時迄に行われたー般告別式に参列された方は,内外著名の士多く,約1,500名であったが、特に附記することは形式 がちな葬式も故人にふさわしいやり方で讃美歌の清い合唱の中に焼香をやり,また参列者が故人の発明品の記録写真中を進むのも黒沢さんの 意に合したものと云えよう。
  終りに昭和28年2月13日内閣賞勲部から故黒沢貞次郎氏に対しその生前の功績をよみし従六位勲五等瑞宝章が授けられた。 民間人にしてこの栄を浴されたのも例のないことで,叉以て故人の偉業と徳の至すところである。
 黒沢さんには夫人を始め3人の御令息4人の御息女皆健在で,夫々活躍をされている。願わくば父君の偉業を継ぎ,国家の ためまた我が国電信界のため貢献されんことを切望すると共に,御一家の御健康と御活動を祈って止まない次第である。  (筆者は,元逓信省工務局機械課長、現在九州碍子株式会社々長)←もどる 
 
真のロータリアン
第60区ガヴァナー 小林雅一 「ロータリーの友」1953年4月号
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 東京R・C・の最も古い正会員であった、黒澤貞次郎君は1月1日以来脳出血で倒れ、治療中であった所、遂に1月27日逝去されました。享年は78歳の由で あります。
 同君の人と成りや、事業の経営方針等に就ては既に長年に渉って世間に良く知られて居り、私がここに述べる必要は無いのでありますが、只私はロ一タリ アンとしての同君に就いて一言陳べさせで頂き度いのであります。
 黒澤君こそは、あらゆる面に於てロ一タリ一精神を身を以って実行した、模範的の人であったと私は思います。
 先ずロ一タリ一の目的に認めてある4項目に対して同君は如何であったかを当てはめて見ましょう。
 第1、同君は1923年東京R・C・の会員となり以来30年の永きに亘りて常に100%又はそれに近い出席率を保持し理事、及会計を勤められたのみならず、 会員として他会員との交友は最も広く且つポピュラ一であり、全会員に尊敬されて居ったのであります。
 同君のあのやさしい態度や天性の愛嬌は誰でも接する人をチャ一ムせずにはおきませんでした。斯くして同君は第1の目的たる「奉仕の機会を作るため 知人を拡めてゆくこと」を完全に行ったのであります。
 第2の「職業を通じて社会に奉仕する」事に対しては、同君の事業は、50年以上になりますが、同君がロ一タリ一に人会される以前よりその精神を実行 せられ、終始変らず継続されて居った事は余りにも有名であります。
例えば売手と買手との関係に於ても同君は一旦タイブライタ一を販売すれば、常にそのタイブライタ一が完全に調子好く動いて居るか、否やを買手に尋 ね、少しでも不満足の点があれば直に修理をするか、新品と取換え、常に顧客の満足の行く様にされて居ったのであります。又同君の考案された仮名文字 タイプライタ一は最初の3台を売るのに実に18年も掛った事や、唯一の得意先である郵政省に年々巨額の納入をして居るのに関わらず、末だかつて只の1回 も御馳走をしたことがないと云う様な事柄は、ロ一タリ一の云う売手、買手の関係を理想的に実行して居ったと云えると思います。又労使関係に於ては同君 は完全なる家族主義を実行され、数十年前より各従業員の家庭に住宅並に菜園を提供し日常の生活に不安のない様にして来たのであって、太平洋戦争当時及 戦後の食料や住宅不足の時でも、黒澤村の人々だけは、余り心配なしに生活出来たのであります。従業員の中には、三代に亘って勤務して居る人も居る由で、 従業員及その家族からは慈父とも仰がれ親しまれて居ったのであります。
 第3の社会奉仕の面では同君はその工場の敷地内につとに小学校を建築して自費を以って経営して居られたのであります。(現在は戦災のため焼失してそ のままとなって居る。)又早くより自費を投じて遠く玉川より水道を引き、それを附近の人々に別け与えて居ったのであります。其他自費を以て交番を設置す るとか、消防署を設けるとか、各方面に多額の費用と協力をおしまなかったことは有名であり、ロータリ一の理想を実地に励行して居ったのであります。
第4の国際奉仕の方面では、同君は幼少の時より米国に渡り10年間もL・C・SMITH会社に勤務した関係上スミス氏(既に故人)の信用絶大にて今日迄50年 以上も密接な関係を保持して居り多数の友人知己を米国に持って常に国祭親善に寄与して居られたのであります。氏は長男圭一君を英本国に留学させ、その 後1930年にはまだその頃日本人の渡航者は殆んど無かった、二ュ一ジーランドのオークランド大学へ二男の英二君を留学させ、将来日本と二ュ一ジ一ランド の国交の為めに尽させ様となされた事などは同君が如何に国際間の理解、親善に心を用いて居られたかが窺われ、口一タリ一の理想の実現に努力されて居っ たことが判かるのであります。
 凡そロ一タリ一の第1の標語である”SERVICE ABOVE SELF”を同君の如く、日常生活に実行した人は世界365,000人のロ一タリ一会員の中でも少ないと思 います。同君が如何に己れに奉ずること薄く、他に奉仕することの厚かったかは毎日新聞(2月4日夕刊)にも載って居った通りであり、同君を知って居た人の 全部が認める所であろう。又その結果として同君の事業は益々栄え最近迄数年間全国個人納税者のNo.1であった程に利益も挙がったのであります。これこそ 即ち第2の標語”HE PROFITS MOST WHO SERVES THE BEST”の実証者と云えると思います。
 東京R・C・が生前同君を最も傑出したる会員(THE MOST OUTSTANDING MEMBER)としてスウェ一デン国王70歳祝賀の記念品として逞られた金ピンを同君に贈 与されたことは誠に故なきに非ずであります。我々は今、斯くの如きロ一タリ一の権化とも言うぺき同君を失ったことは誠に悲しいことであり、日本のロ一 タリ一、否世界のロ一タリ一の為めにも惜みても尚余りあることであります。
 私はここに慎んで弔意を表し、天上の同君の霊に対し御冥福を御祈り致すと同時に遣された夫人並に御家族の上に神の御恵みと御慰の裕かならん事を祈る ものであります。
 
一ロータリアンの隠れたる職業奉仕
理想的な工場経営の実例 ROTARY WHEEL DEC 20 1938
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そこの従業員はすべて安らけくその日々を送るのみか、月に歳にその貯蓄を増し、子供達の教育にさえ何等の苦労もなく只そこの経営主を 父とも頼みつつ生活の安定を喜び合い、各自に与えられた職業に他目もふらず励みつ永きは数十年、短きも就職のその日より安定の 新生涯を楽しみつつある、ここが彼等の為の極楽であり恵まれた天国である。
 こんな風に永年上下心を一にして睦み合う新天地をこの機械化したる工業地に営みつつ国策に適応せる営業を為しつつある、これをしもロータリアンの 所謂職業奉仕の理想と言い得ぬであろうか。

    職業奉仕の実例
 近頃ロータリー倶楽部の会員中真の職業奉仕と云うことは如何なることをするのであるかとの疑問が時折り聞かれるので、 その実例を実際に描写して見んものと理想的工場を営みつつある東京ロータリー会員黒澤貞次朗氏の蒲田工場の一覧を求むべく 銀座六丁目の黒澤商店に店主をお訪ねした。

   黒澤君の御意見
 あの見るからに何時もニコニコした顔の持主である黒澤氏は開ロ一番先ずロータリーの職業奉仕に就て御自身の 解釈を試みらるるのであった、「私は未だロータリーの職業奉仕を蒲田工場で実現して居るとは考えません、あそこで 試みて居りますことは私がロータリーの何ものなるかを知らなかった以前に着手した事柄であって、単にウェルフェーア事業の 一部分と考えて居ります。」

   思うように行かぬ浮世の風
 「然かも世の中は事志と一致せずアアしたい、コウしたいと希望したことも仲々実現しません、あのやうなウェルフェーア 事業は元来借金して興ずべき性質のものでなく、営業上の正常なる利益の一部分を割いて始めて健全に確実に発達するのでありますが、 それとて毎年営業が順調に行くものでもなく、大震災当時の莫大な被害とか、金解禁当時の不況とか、その他社会的或は政治的の変動 とか天災地変とか種々様々な逆境を通り抜け、切り崩しそれに対抗しそれに打ち勝って進まねぱならぬのですからその進歩や発展は 実に歯疹いほど遅々たるものであります」 と黒澤君はまづ実現が理想に遠いものであることを一節語られたのである。

   所謂職工生活
 「然し、職工生活の人々は終日工場に在って外界の変遷にも気付かないのであり専心製作に従事して世間には疎からざるを 得ない、そこで此等の人々の将来や生活安定のために雇主が相当脳漿を絞って世話することは人情味の上から考えても当然すぎる ことです、幸に私の志望の幾分かを実現し得たとすれぱ誠に幸福です。」

Value for Value
 一.しかしながら、ロータリーの職業奉仕と云うことは正直なる合法的の Value for Value へ価値の交換で十円で売る品物には十円だけの資質を具え る、適例を求むれば虎屋の羊かんや山本山の海苔や二百年三百年の老舗の店の商品には値段だけの資質が備わって居る。

  双方安心して売買する
 宮田の自転車なり、明治の菓子なり信用篤き商品を扱うて売方も相営の利益はあるが買手方も安心して実質のある品物を買う、その間少しのトリックも 無く不安もない、売手も買方も双方安心して売買すると云うことはこれがロータリーの職業奉仕ではあるまいか、タヾで他人に物をやる訳にも行かねば、 損をして売ることも出来ぬ、そこには適当な合理的な利潤が無ければ商売は繁昌もせず永続きしない。」

    サービスの濫用  
 「近頃サービスと云う言葉が実に世間に濫用されて、サービスとはタダで何物かを提供することのように使用されますが、実はそれは真実のサービス では ない、無料提供と云うことは一つの呼ひ物で客足を引くアトラクションに過ぎぬ、その実費は何處かで甘く埋合わされて損のゆかぬように工風され決して サーピスではない、斯様な不将なことがあリますか。」

    一心不乱の努力
 「例えば私の営業にしても顧客に対して一心不乱に多年辛苦した経験上、間違いのない、不備不便な点や疵の無い品物を造り上げてそれを正当な値段で 差上げる、信用し合って売買すると云うモットーの下に行はるゝ営業が職業奉仕であると考えているのです。即ち売る儲けると云う念慮よりも社会一般の 御用を正直に勤めると云う信念が営業の根本概念であってこそここに始めてヴォーケショナル・サービスと云うことになるのではあるまいか。」

  西洋の真似はせぬ
 「左様な信念を以って営業して居りますから、その点では多少なりとも職業奉仕の精紳を営業上に登揮して居るかと考えます。然し、それは決して西洋風 の考え方を直訳したものでなく、古来老舗のある店の実行して来た所であると信じます、ここにノレンの価値がある訳でしょう。

  私の人生観から発足
 私の蒲田工場で職工に或るべく慰安的な生活をさせる家屋を提供したり、花園や野菜畑を与え幼稚園や小学校の設備をしてそこで職工の子弟を教育させて 居ると云うことは、それは私自身としては別に職業奉仕とは考えず、また西洋の真似をしたのでもありません、唯私の人生観より発足した僅かな現実に過ぎず、 多年私の心裏に往来しつゝあった理想のほとばしりに過ぎぬので、それをロータリアンの理想である職業奉仕の標本などとはやされてはいささか赤面もするし、 私の素志とも一致せぬ点が有ります」と黒澤商店主は謙遜に語られた。そして是非にとおねだりして黒澤蒲田工場の一覧を許さるゝことゝなった。

   黒澤蒲田工場
 黒澤蒲田工場は大正七年に完成したもので、敷地約三萬坪、従業員数約六百名である。
 正門を入ると右手が従業員家族に割当てられた農園で、五六千坪の畑一面にねぎやほうれん草が青々と生長して居る。道の左手が工場である。なおこの 三万坪の敷地の境界には一面に樹が植え込まれ,工場内の空地にも又桜樹が植え込んである、春にはさぞかし好い花見が出来そうで工場地域は一面の公園か と思わるるほど如何にも長閑な景色である。
 玄関に迎へて下さった黒澤氏はニコニコと「昨日もお話を致しました通リで、まだまだ工場を色々改良致し度いと思っておりますが、仲々思うが如く 運ばぬことぱかリで、」と謙遜される。

   工場内を見物
 これよリ黒澤氏の案内で、同工場を一巡した。
熱心に働く従業員、さすがに東京有数の模範工場と言われるだけあって、その秩序の整然たることは学校かと感ぜらるゝぱかり、その清潔な事、彩光の 完き事、場所を充分にとって危険を防いであること等、工場として批評の余地がない。食堂などもしっかりした土台の上に鉄骨で建てられ、非常時には一瞬 間で立派なエ場に変化し得る準備が整って居る。

  テレタイプ
 「この機械は刷字電信機として、今どしどし市場に出ておりますテレタイプと呼ぶものです。こちらで送信機のテープにタイブライターを打つと、その 文字のサインが打抜かれ、それが遠隔の地に伝えられ、受信機は直ちにタイプライターでそのまゝを打ち出すという組織であります。この工場十数年間の 努力の結晶です・・・と黒澤氏はこちらを見上げながら嬉しそうに説明された。エ場内のそこここには「買う気で作れ」などと云う金言が貼り出されている, これが黒澤氏の堅持さるる経営上のモットーであろう。
 然しながら、私はこの工場を見学して機械の整頓や能率或はその万般の設備よりも、もっと大切な教訓が与えらるることを感じた、それは真の理想的な 経営と云うものは如何なるものであるかと云うことを現実に示される事である。

  職工の住宅と学校
 工場を出て少し行くと、道を挾んで両側に百数十戸の従業員の住宅が秩序正しく並んでいる。どの家にも陽当りの良い縁側と、狭いながらを青々した植木の 植え込まれた庭がある。そしていかにも住心境のよき一家団らんの生活が営まれそうで羨ましい位である。
 この従業員住宅のはずれに黒澤小学校と幼稚園とがある。主に従業員の子弟を教育しているのであって上級約二十名、これは昔の寺小屋教育の現代 化で ありますと黒澤氏自身が言われた。既に六年前に第一回の卒業生が出ている、成績は頗る良いそうである。現在幼稚園を合せて生徒百六十名、先生八名で ある。

  講堂に理想が表わる
 講堂には忠孝の額と、一間四方位の教育勅語の額とが掲げられてある。教室の前の廊下は児童の好奇心を煽るベき別天地である、ここにはテーブルが 作業台となり、あらゆる小道具が備えられ主要木材や鉄鋼材及ぴ非鉄金属の標本やスターレットエ具や職業教育の資料が具備して一小工業学校となっている。 特に変わっているのは、講堂内一面に、大型のいろはカルタを額縁に入れて掲げてあることである。黒澤氏は次の如く説明された。

    道は近きにあリ
 「いろはかるたは非常に善いものですね、永いながい経験が織り込まれておりますから・・・外国を学ばなくとも昔のいろはがるたを、 よく味えば大人物になれるものと私は信じております。
  「ゆだん大敵」
  「ちりもつもれば山となる」
  「びんぼうひまなし」
  「道は近きにありですね」と、この工業哲学者は語るのである。事務員も職エも、小学生も幼稚園生も叉従業員の家族も皆、黒澤氏を親と頼み、 黒澤氏も
 「ほんとに皆んなよく働いてくれます、わが身の事として一心不乱に働いてくれます、申し訳無い事です」と心より感謝しておられる。社員一同 その曰その曰を楽しく送れる訳である。

    真の楽天地
 この楽天地に労動問題や雇員の変動はありよう筈がない。経営者は雇員の人格を尊敬し雇員は又経営者を父と仰いでいる、普通の家族生活以上にここには 和やかな空気がみなぎっているのである。
賃金の少しでも高い方へ職工の動き易き現在の産業界にあって、「私の所ではその様な心配は絶対にありません。今後とも無いと思います」と黒澤氏の 如く断言し得る雇主は世間に幾人あるであろう?
 黒澤氏のやさしい笑顔のどこを押したら、この理想的な模範工場を作り上げる強い力が出るのかと驚かされる。

   女は愛嬌男は度胸
 女は愛嬌、男は度胸と言うが、その二つを兼ね備えているのが黒澤氏だ。しかしてかくのごとき経営が日一日と発展する事は、火を見るよりも明かである 、何と言っても諭より証拠黒澤氏の事業は栄ゆるのみで永久に繁昌して、この天国に住う人々を祝福するであろう。
 黒澤氏の如き人格者を東京ロータリークラブの会員に持つ事は、真にロータリーの名誉であると思う。 ←もどる 
 
「ああ黒澤さん」 渥美育郎  東京ロータリークラブ週報 昭和28年2月 第40号 6
 「本当に惜しい人だったね」、「モウ是からあんな人は出ないナ」。
 黒澤さんの訃をきいたロータリアンーー恐らくロータリアン以外でも 君を知る程の人たちを挙って異口同音の歎声はこれでした。
私と故人との辱知は専らロータリーを通じての過去30年間でしたが、年を重ねる程に君を尊敬し愛慕する心持はいよいよ強まるばかりでした。 しかも人に対し世に処する君の挙措態度というものは、そこにいささかの衒(てら)いもなければ何の工作もない、まことに天真爛漫の発露であって、 私は常に君を以て「平凡なる偉人」と呼んでいたのでした。あのえびす様のようないつも笑をたたえた童顔に、ゆったりとした静かな物言い、 仕事の上でも又交際の上でもあの通りの偽りのない気持でその生涯を貫かれた事と思います。
但し又その半面には、いやしくも道理に外れた邪悪に対してはまた酷しい反抗をも敢て辞さなかったろうと思われ、 私などはお付合いの性質上ついぞそんな処を見た事もありませんが、 定めて永い公私の御生活に於て時には雷のおちる事も往々にして存しただろうと想像も出来ます。
 かつて故米山翁から聞いた、故人があの大を以てしても尚かつ身を持すること只管(ひたすら)に謹厳、浮わついた奢侈や享楽は極度に これを戒めながら、しかもその従業員の福祉や国家社会への奉仕貢献のためには又財をおしまず正義一途にその範を垂れられた様々の事実、 更には君の御死後に於てその知己友人たちが二人寄り三人集まれば必らず話の出る君が過去の奮闘苦心の思い出、数々の他に比類なき美事佳談、 今更ながら「ああ真に得やすからざる人だった」とその都度一同は等しく粛然とするのであります。
 終りに、御生前君としばしば語り合った一笑話を付加えますと、かつてロ−タリーの同好者が当時会員だった吉住小三郎さんを中心にして 時々催した長唄天狗会というのがあって、「長唄うぐいす派」と称して別に一派を樹て右の小三郎さんにも「鶯小三郎」という名取りの免状を 伝授するという凄まじい集団でしたが、故人は専ら洋楽の音譜から克明に独学された一流の唄いぷりで、万年筆を常に指揮捧として 自身の唄を身ぷり手ぷりタクトして居られたその可憐な滑稽さは今も目先にチラつくのですが、その頃の或年私は偶然君と大阪の出張先で出くわして、 直に君を拉して某所で長唄の競演会をやった事がありますが、その夜は彼の名曲「紀文大尽」のみを立て続けに数回もくり返し唄いつづけて、 各々自己陶酔の佳境をほしいままにした事がありましたが、頓(つかれ)て連立ってホテノレに引揚げたその夜半から俄かに天地鳴動して降るわ吹くわ それが阪神一面かけてのあの名だたる大風水害を惹起したのでありました。
丁度あの「紀文」の中のみかん船が遠州灘で大時化に遭ったくだりと 思い合せて、まことや我等入神の技は遂に雲をよび風を起せし次第にこそと、二人は鼻高々と笑い興じたのでしたが、そのため小三郎さんから その後両人に「紀文」の唄を封じると申渡されたなどという冗談の追憶もありますが、こんなほほえましい半面をも君は豊かに持って居られて、 それが又更に君を円熟した潤おいに色どったものと思われます。
  ああ黒澤さん。君こそは本当にロータリアン中のロータリアン-――恐らく世界に求めて幾人と得難い正真のロータリアンであって、 心からなる敬慕の情はとこしえに吾等同人の胸に消えない事でありましょう。  謹んでここに尽きざる追悼を捧げます。
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THE JAPAN TIMES & MAIL    Sunday September 30 1928

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Service To Employees Practised In Model Kurosawa Factory
ROTARIAN SPENDS YEARS DEVELOPING AN IDEAL FACTORY
Well Known Tokyo Businessman Works For His Employees
BUILDS NEW SCHOOL
Children In Compound Look
Up To Founder Of Plant As Their Father

 
  More than twenty years ago, just at about the time Paul P Harris, founder of the Rotary Club, which in the span of a few brief years has girdled the world and served as an inspiration to many other organization different in name but similarin purpose now follwing the trail blessed by this worthy organization. Had in mind the establishment of his institution a kind-hearted Japanese businessman began forming plans for the founding of a model factory,--one in which SERVICE towards employees would be given consideration before anything else.
 More than twenty years have passed since then and just as the Rotary Club today stands as a worthy monument of the work of its founder, so the model Teijiro Kurosawa factory in the suburbs of Tokyo stands as a monument to the work of its founder.
 Twenty-three minutes from Tokyo by the Tokyo-Yokohama electric train is the town of Kamata. It is a tiny town but a busy one. Here a large proportion of Japan’s motion pictures are produced. Here the best Diesel engines for motorships are manufactured. Here a multitude of other products are made.
  A more four blocks from Kamata Station is the model Kurosawa factory where 500 men, women and children live in complete happiness.
 

  Shuns Publicity
  This factory, naturally, is known XXXX in Kamata. But it is little known to the rest of the country, primarily because Mr. Kurosawa is not a seeker after publicity. In fact few people shun publicity as he does and it is only because of the unusual persistency on the part of The Japan Times in approaching Mr. Kurosawa for information regarding his institution that the story of his model factory is published here. Details of the workings of the institution have hitherto never been given to the press.
 Take most great things, the Kurosawa factory was not built in a day and this fact is attested to by a lathe which Mr. Kurosawa pridefully displays in one part of his factory.
  This lathe is scarcely three feet in length. It was the first lathe to be used in the factory a score of years ago. In another part of the factory one is shown a lathe hundreds of little larger than the first. This is the one that is in use today, and it is but one example of the growth of the institution which starting with one worker in 1901 today employs 150 people.

 
  Live ideally
 The remarkable thing is that these 150 workers and their families numbering half a thousand persons, live on the factory premises in ideal XXXX erected by Mr. Kurosawa for them.
 Is it a wonder then that not only his employees but their wives and specially the children living in the factory compound love Mr. Kurosawa as they do their own parents?
  As a instance of what Mr. Kurosawa is always doing for the welfare of his colony, it need merely be XXXted out that now, since the number of children in his compound has increased, he has had a modern school constructed with money from his own pocket. This institution will become a kindergarten and a primary school. It is a school for the children of employees, but it is one to which members of the best families in Tokyo can proudly send their children. The building is one of the most up-to- date structures in Japan. Its teachers are experienced and specially selected instructors. Its playground is spacious.
 
  Goes Out of Way
  Because he believes in SERVICE TO HIS EMPLOYEES, Mr. Kurosawa has gone out of his way to have his school built. It is the same with everything else Mr. Kurosawa had done. It is of his employees that he thinks of first. He is a respectable man indeed.
  What Mr. Kurosawa should be a Rotarian is only incidental. Long before he ever heard of Rotary, he was at his work of SERVICE ABOVE SELF. On hearing of Rotary several years ago, he immediately look a great interest in that institution and its work and was made a member of that organization’s club in Tokyo not long ago. Since then he has more than ever worked towards advancing the welfare of his employees and is one of the staunchest upholders of Rotary’s motto of SERVICE ABOVE SELF.
 
  Chooses Best Material
In building bathrooms, dining rooms and homes for his employees, Mr. Kurosawa has chosen the best material available. Asked why he went to such expense in purchasing such costly material when cheaper ones sufficed, he declared that it was his wish to have his men supplied capable of producing.
  In his factory one finds more modern and better machinery than is to be found in almost any factory in Japan. When one realizes how expensive machinery is in this country, he comes to an understanding of what Mr. Kurosawa is doing for his employees.
 But these modern appliances, most of which have been imported from abroad, have not been installed merely for the comfort of the workmen.
 They ware installed because Mr. Kurosawa is a believer in efficiency, and in producing most from the least possible human energy.
Persons acquainted with factory methods in Japan declare after a visit to the Kurosawa works that his 150 employees are producing the work which requires at last 250 employees to do in other factories in Japan.
 
  Give High Efficiency
 This perhaps explains why the machinery in the Kurosawa factory gives the highest efficiency of any in this country. Self sacrifice on the part of the founder of the widely known Kamata factory has made this possible.
To cite Mr. Kurosawa’s foresight in his work in building up his model plant, let us recall an incident in his busy life. There are 5 trees on the roadside in the factory compounds in the Kamata works which shade the homes of Mr. Kurosawa’s factory hands. How were these trees grown?
  Years ago Mr. Kurosawa attended a dinner given by a friend. Several nuts were presented to him after the banquet. Mr. Kurosawa did not eat the nuts. He brought them on the roadside and in the course of time the tiny plants grew to their present size.
 
  Saving Spirit Encouraged
 This foresight has been encouraged by Mr. Kurosawa among his men. Today so far as postal savings accounts are concerned the Kurosawa factory ranks highest in Japan in the average amount of money deposited. About 100 families in the factory compounds boast a saving of 1,000 yen, which is an unusual amount for a laborer’s family in Japan. The total deposits of 150 men amount to more then 100,000 yen.
 This is but one side of the work Mr. Kurosawa is doing for his employees in following his creed of SERVICE ABOVE SELF.
 Mr. Kurosawa owns a spacious lot adjoining his factory. With land XXXX XXX XXX XXX today in the suburbs of Tokyo, this lot will bring in a tiny fortune in itself if sold now.
 But will Mr. Kurosawa sell this lot? He will not. And the reason is that some years ago he opened his lot to his employees to be used by them to cultivate vegetables. The workmen have each been allotted a certain space of land, and each employee today has a garden of his own of which he is justly proud. The vegetables that are grown by the men are taken home with them each evening and eaten at dinner time.
Quite naturally it is a sacrifice to Mr. Kurosawa to open up this spacious field to his men free of charge. But that is all in the day’s work, or rather pleasure Mr. Kurosawa finds it of doing some service for his employees.
 
  Lays Water Main
 Years ago when the Tokyo City Water Works was not yet supplying water to residents in Kamata. Mr. Kurosawa spent 10,000 yen to have an infiltration well constructed at Tamagawa, some miles away and to lay a water main to his factory. The capacity of this flow is 120,000 gallons a day. Kamata is known for its bad water. As only one sixth of the water he obtains from Tamagawa is necessary for the needs of his employees and himself, Mr. Kurosawa is at present giving away the bulk of the supply to people in the neighborhood. This water naturally is distributed in pipes which are run underground, and therefore few realize that water from the Kurosawa mains are furnished to his neighbors. Still Mr. Kurosawa is the last person to mention this fact.
 In installing the infiltration system, Mr. Kurosawa has again displayed remarkable foresight. The system is one which is in use in Toronto, Canada and is the first to be employed in this country. The original cost, of cause, was high, but the upkeep is such that while most systems in use in this country are expensive to operate the Kurosawa plants are served with water that is obtained cheaply.
 Twice a year all families living in the Kurosawa compound are invited to a garden party given at Mr. Kurosawa’s residence. There take place in the Spring and Autumn.
 

  Whenever an employee in the Kurosawa factory is taken ill, he, unlike employees in most other factories, needs worry little about having his pay check reduced, for it is one of Mr. Kurosawa’s principals to not only pay full wages to sick employees but to foot the bills of all those who are compelled to pay heavy medical bills.
 As for himself, Mr.Kurosawa lives as cheaply as possible. His slogan is taken from “Evangeline”by Longfellow:“The richest was the poorest and the poorest lived in abundance.”
 He has only one suit of clothes for each season, one hat and a single pair of shoes though he is the head of one of the best known importing and manufacturing establishments in Tokyo. Mr. Kurosawa says he is happiest when he thinks that he is the servant of man.

 

THE KUROSAWA FACTORY A general view of the Teijiro Kurosawa factory at Kamata
 
A KINDERGARTEN FOR TOTS
This newly constructed kindergarten adjoins the primary school built specially for the children in the Kurosawa compound. It is an ideal institution.
 

The Kindergarten      Children’s Playground
WHERE THE MEN HAVE LUNCH TOGETHER
A section of the spacious dining room in the Kurosawa factory where daily 150 workmen get together and spend a joyful hour. Vegetables Grown by Factory Workers Mr. Kurosawa has had a spacious field adjoining his model factory in Kamata opened up for the use of his employees. IN this lot his 150 employees have planted numerous varieties of vegetables.
 
AN EFFICIENT WORKER
One of the 150workmen in Mr. Kurosawa’s model factory, which is installed with the most up-to-date machinery available. Mr. Kurosawa believes in efficiency and in enabling his men to produce as much as possible for the least amount of energy. Workmen’s homes
FACTORY FOUNDER
Mr.Teijiro Kurosawa, well-known Tokyo businessman and Rotarian who has established a model factory at Kamata where Service to Employees is stressed more than in any other factory in Japan.
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黒澤貞次郎氏講演概要  
一九三五年六月二十六日於黒澤商店蒲田工場    ENGLISH
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 只今御紹介に預りました私が黒澤で御座います、御暑い中を態々御出て下さいまして有難う御座います。私共がかように 工場を経営致して居りますと時々工場を見に来られる方々が御座いますが、その方々はきまった様に、何か信念があるかとか、 資本はどうかとか御尋ねになりますが、私はこれと云って特に遠大な計画とか、又は大資本と云う様なものは持って居らない のであります。かような呑気な漫然としたことでよくもこれ迄やって来られたものだと自分ながら驚きもし 感謝も致して居ります。言わば一粒の良種が幸いに土地を得て温き時の恵みに依り芽をふきそれが、従業員諸君の心からなる、 丹誠に依り年と共に成長致しまして苗となり木となり枝を張り葉を付けて御覧の通りの梢々大木となったのであります。
 創業以来三十四年になりますが、その間財界の波乱があったことも二、三に止まらず且又関東の大震災もありましたが、 この小資本のこれと云う設備もなく、大生産力も持たないちっぼけな個人工場がこれ等の苦境の荒波を無事に乗切り今日迄 存在を続けて来たと云うことは、誠に有難いことゝ感激致して居ります。この頃の言葉で云えば福利施設と申しますか 学校とか住宅の経営或は食堂の設備とかに付きましては私は出来る丈けやって居るつもりであります。然し之は 特に福利施設として従業員諸君に恩を施すとか何んとか云うつもりでやっているのでは決してありません。 私から申しますと変でありますが、私は小学校も中途にして、働かなければならぬ境遇に置かれました関係上、自分等と一緒に 働いて呉れる方々の子弟をしてかつて私が舐めた様な苦杯を喫せしめたくない、何んなことがあっても小学校だけは満足に 卒えさせて上げたい斯様な考へから学校を作りました。私の工場には食堂も御座いますが近くに 住宅を作ってありますから 家に帰って一家団らんのうちに食事を摂ると云うことは家庭愛の上から申しましても誠に結構なことゝ存じますが、この 食堂で一同が一緒になりささやかながら、昼食をすると云ふことにも一にはお互いが苦しかった,昔を偲ぶよすがにも、 又一にはお互いの親密を増す為めにも幾許かの効果はあるだろうと思ってやって居ります。
食堂に当てました建物は非常時に際しては直ぐにも工場として使える様にと考えまして工場と同様に作ってあります。 次ぎに住宅でありますが今から二十年前には家賃が高かったこともありましたので住宅を作ったならぱ、従業員の方々にも 多少は楽になって貰へるだろうと思って、一軒二軒と増して行ったのが今の様になったのであります、樹木も相当に ありますので或は儲けて作ったのだろう等と思われるかも知れませんが、この樹木は一部分は苗木からであるが他の大部分は 種子からの芽生えであって、これ又時の恵みと人の丹誠の所産に外ありません。前にも申上げました様に、学校と致しましては 小学校と幼稚園がありますが、ここでは只だ生きた人聞を作る基礎教育をさえすればよいのだと考えて居ります。
 これ等の福利施設と申しますかを作るのに一時にまとまった金を出したのでは決して無くその時々に作ったので、今から 顧みましてよくもまあ出来たものだと我ながら感心もしまた驚いても居ります。総てはこれ丹誠の華であり実であって決して 私のみの功労でも何んでもありません。
 斯様に申し上げますと、或は恩に慣れ又は情に甘えて成績が低下しやあしないか、又は収支が償はぬ様なことはないか等と 申される人も御座いますが、私の所ではもと々恩情を施さんが為にやっているのではありませんから、恩情の蔭に怠けると 云ふことはありません、少くとも私は聞いて居りません、御覧の通り多分に素人臭い所が御座います様に此等の建物は自分で 材料を購い自分で柱を立て屋根を葺いて出来たのであります。
何時までもこの工場が存続しそして、又我々が栄えて行く為には必ずや一致団結の力を要するものであって、算盤を弾いては 到底出来るものではありません、それは未知数の集積でありまして決して理窟ではないのであります。
 小工業の経営をやれば儲ける時もありますが、又損をする時もあります。商売である限り損得のあるのは止むを得ないことで あります。儲けたとか損をしたとこか言う事は単に帳簿上の計算にのみ依るべきものではなくて、後になって螺子が殖え 材料の在庫が増して居ればそれは儲けたことになるのであります。私はかように考えて居ります。儲かった時には 損をしたと思って何か品物を作ればよい、損をすれば極楽銀行に預金をしたのだと思へばよろしいのであります。
諺に「国乱れて忠臣顕れ家貧しうして孝子出づ」とか申しますが斯様に集団的生活を致して居りますと平常は色々な私共の所の 様な福利施設とか云うものがどれ丈け役立って居るかなどと云うことは判りませんが一朝有時に際しましてあゝよかったと 思われることが時々あるのであります。彼の関東の大震災の折がそうでありました。私の所では皆の者が散りぢりにならず、 一つ所に居りましたので、直に集ることが出来翌る日から自分達の工場は自分達で作らうと云う決心になりまして この工場が出来上ったのであります、これなどは集団の関係に依る賜であると思って居ります。
福利施設とか云うものは 結局火災保険或は生命保険をかけて居るのと同様だろうと考えます。此の種施設が私の道楽でない事は勿論でありますが決して 又恩を売る為のものでもありません、祖先から教えられた「積善の家には餘慶あり」との格言は私への唯一の遺産であります。 私の両親は非常に善人でありました。其の餘慶で私が今日あることが出来、また私が出来る丈けのことをして置けば 私の子供達にはきっと良い餘慶に預ることが出来る考えで居ります。
この種事業は今後とも継続してやる心算であります。 時折私は皆の者を集めて話をすることがありますが。その時私はこの工場を船に喩へまして私はこの黒澤丸の船長であり、 皆さんは船員である、如何なる苦難に遭おうとも如何に波が荒かろうとも全員が協力一致してその持場を守るならば、 黒澤丸は決して沈没することはありますまい、然し、皆さんが不注意で或は怠けて働くならば、この船には穴が開くかも 知れないからよく気を付けて決して穴を開けてはならない況んや沈没させてはならない、私は常に同一の船に乗組んで居る 心算であります。
 何かやって国家社会に貢献をしたい之が私の念願であり、そして叉同時に此の黒澤丸の港でもあると信じて居ります。
これで私のお話は終りたいと思います。永々と御清聴を煩しまして有難う御座いました。

 質問応答
△資本なしと云わるゝが初めは如何
△製作工程中能率増強に関し特別の組織ありや
 能率増進と云うことは大分以前より叫ばれている事ではありますが.私は良品を作ると云う事が最大の能率増進なりと 信じております、もともと数量の多寡は問題でない要は如何にして、良品を作るかにある、特別の組織は持っておりません。
△創業当時より製品を作りしや
 当時は設備が無かったので部分品のみしか作らなかった
△最初幾人位居たか
 ニ、三人しかいなかった。今工場長をやっているのが一番古い。
△今迄に悪い職工が居たか 
 時にはある様だが私は知らん。やめた人は少い、近所で労働争議があった時に私の所へも来ると云うので来たらお弁当でも 作ってやろうと思っていたが、遂に来なかった。
△、雇入は如何にしてやるか
 大てい紹介による血縁関係(職工の)者が相当いる
△学校卒業者は工場に収容するや
 本人の希望次第である
△停年制ありや
 私自身が停年にされるのが嫌だから左様なものは作ってない。
△創業当時同業者ありや
 ない、商売は同業者がないとやりにくいものだ、同業が増すと云う事は仕事に見込があると云う事になる。同業者の出来る程有難い。
△何故に仮名タイブライターを作りしや
これを作った動機は,日清戦争当時支那は知られていたが,日本は知られていない日本人が支那人と間違われるのは人種が 同一であるからでもあるが、一つは同一の文字を使うからである.支那人と間違われない様にと思って明治三十二年初めて作った。 実際に使い初められたのは大正四年で、作ってから十八年目に中央電信局で二台使ったのが初めてである。 ←もどる 
 
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前略御免下されたく侯
私儀今回エリオット及びハッチ会社と協同して日本字タイプライターを製造致し候につき其の機械の書きし見本相添え御披露申し上げ候。 機械の構造は堅牢にして、用い方はたやすく何人にても二、三時間の実習の後は自由に用い得べし。 今更申すまでもなくタイプライターはヨーロッパ及びアメリカに広く用いられ、其の特色の一、二を挙げれば、 速やかに書き得ること達筆の人も及ぷべからず、明らかに書くこと能書の人も比ぶあたわず、故にこれを読む者の時を省き誤りを除き其の便利なること、 一々挙ぐるを要せず実に文明の進歩に欠くべからざる機械と存じ候。 我等些か感ずるところあり、世に先んじて日本字タイブライターを造り侯へぱ御賛成ありて御友人に御披露下され候へば幸福に存じ侯。 我等はカタカナ・タイプライターも製造仕り侯。猶機械の代価及びそれに関して記したる目録御申越し次第差し上ぐ可く候。
先ずは貴意を得たく斯の如くに御座候也。
  一八九九年八月九日  小西信八殿
(原文は、ひらがなタイブライター印字)
   小西信八氏(こにし のぶはち)  東京盲唖学校校長
   東京高等師範学校(今の文理科大学)同窓会【若戻会)会誌第二〇〇号(明治三十二年十月二十日発行)にて紹介された。 ←もどる 
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店の特色を表示する標語   黒澤商店店主黒澤貞次郎 11
    私の店の標語
 私の店の標語は、 英語で言えば

“Everything best in office Appliance"

訳して「事務用具の最善のものは何でも」と云うをもってこれを充てている。
「親切第一」とか「正直第一」といったような標語は店の標語としては誠に面白いが、然しながらこれ等の語句は一般的のもので、何處の店なり、 会社なり、はた人間として一般に守らなけれぱならぬことで、一般に特有のものでない。 私の店の標語は一寸異様に聞えるであろうが、 本場の米国ではそう云ったような,その店の特色を表示するが如き標語を用いている所が沢山ある.
   儲けは第二
「事務用具の最善のものは何でも」と云う私の店の標語の意味は、事務用具の最善のものは何でもあり、最善のものでなければ取扱わぬ、 最善のものでなけれぱ儲けぬと云うのである。
 商売人の儲けと云うものは、そんな浮いたものではなく、あたかも樫の木の育つが如き堅実なものである。商人の儲けは第ニであって、 社会奉仕が第一であらねばならぬ。私の店で、事務組織の材料を取扱った動機は、これによって儲けると云うよりは.むしろ人間の執務能率に限りあり、 これを補うには機械力によらねぱならぬ.機械を用いるならぱ精良なるものを要すると同時に、これが供給者を要する。 これが供給者に自ら当らんと決心したのが.即ちそれである。
私の店で初めタイプライターを取扱ったのは、私が漢字嫌いであり、これを普及して世の進歩に貢献すると思ったからである。 儲けようというよりは、 無意識に儲かっているのである。商人は帰着する所は,社会奉仕の第一の戦線に立っている人である。商人で自分の取扱っている商品について、 一つの理想を有し、これに対して趣味を有っておらねばならぬ。綿花なり.鉄なりを取扱うならば、寝ても起きても綿花なり,鉄なりであらねばならぬ。
しかしてこの人は必らず儲ける人であり、成功する人である。然しなから綿花が儲かるから綿花をやる、鉄が利益があるから鉄を取扱うと云ったような人は、 遂に財産を蕩尽する人である。試みに商界において蹉跌失敗した人をみるに、比々皆然りである。
 故に儲けんとする事は,近眼の考であって、商売上の基礎があれば.英語の所謂ケントヘルプで儲けざるを得ないのである。
   私の店の主義
私の店で取扱っているタイプライターなり、その他の事務用具なりについて、海外の第二流の製造所から取扱ってくれないかと云う提議がしばしば来る。 然し私の店では最善のものと云う確たる標準があり、一定した物指がある。この物指で計ると寸法が違うから、謝絶することになる。
 新規に発明せられたものには、試験時代と云うものがあるものである、その試験時代を経過して、 最善のものと云うことが実証せられない以上は私の店の主義統一の上から軽々に取扱わぬ。うっかりすると、塵を掴む危険があるからである。
 あるいは新登明品を聞賭するや、電光石火の勢で掴まなければ、他の商人のためにその販売権を独占せらる恐れなきやに云へば、 成程ある商品にはソンな事もあり、時としては人に先んせらることもある。然しながら人間の力と云うものは限りあるもので、才子なら別として、 私の如き鈍物を以てしては、限りなき品を集めることは出来ない.急いで塵を掴むよりは、退いて守った方が万全である。よし又前述のやうな事があっても、 同じ社会に働いているのであるから、他の人に儲けるチャンスを与えても宜いではないか。自分の店の基礎は強固であるから、 これあるがために人に本城を陥落せしめるようなことは断じてない。しかのみならず二十年前も今日も飯は日に三度しか喰わないのであるから, 何にもソンなに焦せらんでも宜い。言葉は平易であるが、英語の所謂、スロー、バット、シュアー 「遅くとも堅実」と云うことは、私共の座右銘である。
 巨万の富を儲けると云う事が、必ずしも成功ではない。その日々の仕事を満足にやった人こそ.真に大成功者と言わねぱならぬ。よし車を挽こうか, 荷造りをしようか.忠実に満足にその仕事をやった人であったならば.その人に大成功来らざるを得ない。今日も明日も一年三百六十五日、 これを繰返しておったならぱ、その人に大成功来らざるを得ないのである。
 億万の富を積むことは、必ずしも幸福ではない。精紳に満足を得る人こそ、真の幸福者である。空想に耽る者は,遂に失望に終る。 一足飛びに成功せんとする人は、一時に十万枚の煉瓦を振り蒔いて、一挙して大家高楼を建築せんとする人である。三菱の原に行きて, 大家屋は一枚づつ煉瓦を積み上ることによって竣成せらるの状をみぱ思いなかばに過ぐるものがあるであろう。
 曖昧な客と確実な客 
商人として事情が許すならば、確実な商品を売った方が最も安全である。そう云った店には確実な客が来て従て貸倒と云うような危険がないからである。 商人にして最も怖るぺきものは貸倒れである。
 確実な商品を売る事はその店の所謂保護色である。友は類をもって集まる。曖昧な商品を売っている店には.自然曖昧な客しか来らす、 確実な商品を取扱っている店へは、自然確実な客が来るのが例である。従って確実なる商品を売るという事は、 即ちその店の自然の保護色とも称すぺきである。 故にいやしくも商人として、自ら保護するゆえんの途を講ぜざれば、禽獣昆虫にも劣る。
 商人は商品を売って、金さえ取って仕まえば後はドウでもよいと云うものではない。その売った商品に対しては、あくまで責任を有たねぱならぬ。 もし私の店で買った商品にして、誤まって悪い品があったとしたら.私の店の全資産をもってするも、私はその人に対して迷惑を掛けない覚悟である。 自分の店で売った商品は、自分で署名して振出した手形と同様なものである。黒澤貞次郎製造と刻印を打った商品は、 取りも直さず私が署名して振り出した手形と同一の者であらねばならぬ。この商品に対しては私が責任を負うのは当然である。
 何事にも安全率と云うものがあると同じく、一年持つと云って売った商品なら、二年持つものを売ってこそ、始めて責任ある商人と称すべきである。 ←もどる 
我が黒澤村想い出ばなし   水戸幸子 「ひろば」より 12
 父から聞いた水道工事の話
 私の父は東京ガスで組長をしていた長兄を頼って埼玉県の栗橋から上京し、東京ガスで配管の仕事をしておりました。結婚後、 本郷の春木町で、雑貨屋をしていた母か、あまり丈夫でなかった事もあり、どなたかの紹介で蒲田なら閑静でよいという事で、 黒沢工場に入社し、経験を活かして、水道工事に従事する事になったのだそうです。
水源地は今の多摩川大橋のすぐ近くにあり、土地の農家の方達のご協力を得て、黒沢村まで水道を敷いたという事です。 水源地から来た水は、大きな池に溜められ芝を植えられた浄水場で浄化され、ゴクソゴクンと音を立てて、タンクに揚げられて、 各家々に配水されたのです。
 私は父に浄水場の上にあがって、蓋を開けて、中を見せてもらった事がありました。
 中では奇麗な水が、まるで躍っている様に見えたのを覚えております。
その後、水源地が枯れて来て、水の出が悪くなり、夏等タソクまで水を汲みに行く様になり、東京市の水道から配水を受ける 様になりました。
父は本宅(社長宅を私達は本宅とお呼びしておりました)で水道が故障した時等、よく出かけて行って、修理をして おりました。

 五分遅れの時計と岩崎さんの思い出
大正十二年の関東大震災の時、工場の時計が、たまたま五分遅れていたそうです。その為に従業員が、全壊した食堂に行かず にすんで助かった事を記念して、ずっと五分遅れにしてあるのだと聞かされておりました。
その時、従業員の岩崎さんの奥さん(秋田出身の美しい方でした)が、多分食堂だと思いますが、揺れがひどい為、 テーブルの下に入り、片方の手をテーブルにかけ身体を、ささえていたところに大きな石柱がたおれて、腕を肩から失なう大怪我 をされてしまいました。
その後、片腕だけになられた小母さんは、女の子を生み、家事一切をなさり、私も近所でしたので、子供ながら感心して見て おりました。が、掃除、洗濯等、ロ、手、足を使って、それは上手にやっておられました。特に編物は、帯に編棒の片方をはさみ、 それは早く上手に編みあげるのです。私は小母さんの編んだセーターを着せられ、母に、人間は努力すれば、何でも出来る とよくいわれました。今は故人になられた小母さんを、私は忘れる事が出来ません。
 震災の時、父は社宅に帰って来る時、水が出て大変だったと私に話した事があります。
 いつの新聞でしたか、地震の時の出水の記事を読みました.か、この辺一帯は出水の注意をした方がよいと思いました。

 壊れたコンクリートの建物
関東大震災で外壁だけになった建物を、私達は、コンクリと呼んでかっこうの遊び場にしておりました。夏は大変涼しく、 朝からゴザを持って出かけ、勉強したり、オママゴトをしたりして楽しく過した思い出の場所だったのです。
この建物は学校だった事は聞いておりましたが、これが黒沢小学校誕生にもなったのだと思うと感無量です。

 映 画 会
黒沢では、年に何回か食堂で映画会が行われ夕食をすませると、誘いあわせて食堂に集まり一夜を楽しく過しました。映画は、 チャップリンのものが多く、殆どのチャップリソ映画は見せて頂いた様に思います。

 食堂のカレー
 食堂のチーフ小出さんのカレー、メンチカツ等の美味しかった事、今でも同窓会等で集まった時に、食堂のカレーの話が出て、 どんなに美味しいといわれるカレー屋さんのカレーでも、あの小出さんのカレーには、かなわない味だと、皆、あの味を懐かし がっております。食堂のカレーは前もって頼んでおくと、一杯二十銭で売ってくれたのです。
お鍋をもって食堂に行くと、こげない様に二重になった大きな鍋から、大きなおたまで一杯、鍋に入れてくれるのです。この カレーの時は、何杯もごはんのおかわりをして、母にお腹をこわすと叱られたものです。
 黒沢のお父さん達は、子供の為に、カレーのほか、美味しいカツ、メソチカツ、親子丼等の時には、家に持って来てくれたのです。 それを皆で分けて、美味しく頂きました。
又それが、私達の楽しみでもあったのです。

  薪と木工場
黒沢工場では、年に何回か、木工場の廃材を薪として従業員に下さいました。指定された日に、一反風呂敷を持って、 木工場に行き、一軒、風呂敷一杯の薪を頂いて、それをひっぱって家に持って帰りました。
その当時は、薪でご飯を炊いておりました。朝おこげが出来た時は、お正油をかけてお握りを作ってもらって、よく食べました。 それが又、とても美味しいのです。この様にして、工場と社宅といつもつながっていた様に思います。

 ロケ地としての黒沢村
 壊れたコソクリの前の広場は、阿部正三郎、三井秀男、磯野秋雄のトリオの兵隊物シリーズのロケがよく行われ、学校の休み 時間にとんでいって見たものです。
絹川京子扮するクー二ヤンが、監督さんのオーケーが出るまで、何回も同じ事をくりかえすのをみて、俳優さんて大変なんだな と思ったものです。このロケ中に、エキストラの兵隊の銃が暴発し、大きな音がして、びっくりした事があります。今なら 大騒ぎになった事でしょうが、怪我人もなく何事にもならずにすんでしまいました。
 又工場の広場では、江川宇礼雄、鈴木伝明、大日方伝さん達のロケがよくありました。水道タソクの裏は松の植込みがあり、 そこを海岸の松原にみたてて、金色夜叉のロケがあり、当時の林長二郎、田中絹代さんが散歩する場面を撮った事があったそうです。
斉藤達雄、八雲理恵子さんのコソビのロケの時、電線にかかった凧をとろうとして電線から落ちる場面で、斉藤達雄さんが 落ちるに落ちられなくなり、下に布団等敷いてやっと落ちて撮影が終った事もありました。
この様に、工場の昼休み、学校の昼休みに、皆ロケを見物し楽しんだものです。

 黒沢村から見えた蒲田駅
 父達が黒沢に来たのは、大正八、九年の頃だと思います。当時の蒲田駅は社宅(ポチャポチャ池のそぱの三号社宅)から見えた そうで、駅員の「蒲田、蒲田」という声が聞こえて、乗降する二、三人の姿が見えたとか、いかに、田舎だった事か分かります。
今の新蒲田一丁目あたりは、「原の三軒屋」といって、本当に淋しいところだったそうです。
現在のユザワヤ近くに、三島家の別荘があり、あの不如帰の浪子さんのお姑さんのモデルといわれるご隠居さんが、看護婦さんに 手をひかれて庭を散歩している姿が、垣根ごしに見られたと、母は私に話してくれました。
 私の小さい頃の三島ヶ原は草ポウボウで、夜は追はぎが出るといわれ、夜の外出には、小田原ぢょうちんをつけて出かけたようです。
「三島ヶ原」の名は、御園中学の校歌の中に、その名を残すのみとなりました。

 黒沢と私の家
 私の家は、三号社宅から二号社宅と二度うつりまして、今区民センターの南口のところが、私の家があったところで、まだ 当時の椎の木が一本残っております。犬の散歩で通る道ですが、いつも懐かしく思いながら歩いております。
父堀越長太郎は、六十五歳で亡くなるまで工場に勤務いたしました。叔父堀越計は、早く亡くなりましたが、叔母堀越うたが、 停年まで勤務致しました。私の弟堀越貢は、黒沢工場から南多摩にある富士通にうつり現在も勤務しております。小林総務課長様は 弟を御存知だと思います。
又、私の小さい頃、母方の従姉の遊橋市が、本宅にご奉公にあがっておりまして、園遊会で本宅に行った時、二階で裁縫を している従姉の室で遊んだことを覚えております。

 黒沢小学校の思い出あれこれ
 黒沢小学校が開校され、私が矢口東小学校から転校したのは二年生の初め頃だったと思います。
校長は、鈴木先生、姓に、坂本先生(後に校長)ご夫妻、富岡先生。黒木先生は一年程あとに赴任されました。
 同級生は十四名、天野勲、芦沢実、石橋徳次(病死〕、日吉昌一郎、田中十一,丹羽一雄(病死)、榊原忠男(戦死)、 金子(村外の子弟)、鈴木延義(村外の子弟、戦死)、中村一江、吉田孝子、山田芳子、堀越幸子、藪静江(後に転校、病死)。
 木の香りとペンキの匂いのする教室で、私達生徒、一年、二年、三年の三クラスだけの授業が始まりました。グリーンの黒板、 一人一人の机と椅子、何もかも新しく、わくわくしながらの毎日の通学でした。
 講堂や廊下の窓の柱には、『史誌31号』にもありましたが、いろいろな木の標本と、いろはかるたの小さな額がかかり、 かるたの英訳文が書いてありました。時折おとずれるアメリカのお客様を案内された、旦那さんが、一つ、一つのかるたを 英語で説明されていらっしゃったお姿が目にうかびます(私達は社長さんを旦那さんとお呼びしておりました)。
 講堂には大きな柱時計があり、静かな放課後、時を報らせる美しい音色が学校中に響きわたるのを、ほれぼれ 聞いた事を想い出します。
 各教室には学年に応じた本棚があり、本が大好きだった私は、小さな体(万年チビが私のあだな)で、何冊もお借りして、 家でむさぼる様に読みました。学校の本は殆んど読んだと思います。この本は本宅の方々が読まれたものを頂いたのだそうです。
五年生の教室の壁にはってあったハガキはアメリカの発明王エジソンから旦那さんに来たものでした。エジソンから ハガキが来るなんて、旦那さんは偉い人なのだと子供心に思ったものです。
学校の横の三号社宅の裏に、一人半坪の生徒用の小さな農園があり、大倉農園に、馬糞等の肥料をもらいに行って、 小さな鍬で耕し、畝の作り方、種の蒔き方等を教えて頂きました。
じゃがいも、さつまいも、唐もろこし等を植えて、収穫したさつまいも等は皆で食べた様に思います。この経験が 戦後の食糧難時代に大変役立って、結構いろいろな作物を
 教員室の前の廊下に一日おきに小さな売店が開かれて、工場から筒井さんがお出になって、ノート、鉛筆、 消しゴム等の文房具を売って下さいました。今は故人になられた筒井さんの優しい笑顔を思い出します。
 学校では何をするにも人数がたりない為に、ニクラス合同で行ないました。
 学芸会で児島高徳を演じた時、私達六年女子は世話係、児島高徳は六年の天野勲さん、同じく天皇は鈴木延義さん、 あとの生徒は、家来達、五年の女子はお供の侍女という具合でした。劇が終わって、紙で作った衣装をおさえながら、 記念写真を撮りました。私の古いスクラッブブックにこの写真が残っております。
運動会の競技も同じで、黒沢村全体の催しの様に賑やかに行なわれました。
 運動会の会場も私達の頃は、水道タンクの前の広場、壊れたコソクリの前の広場、一度は、東洋オーチスが建つ前の 広場でやりました。
その頃グリコの一粒三〇〇メートルのキャラメルが売り出され、皆、グリコの一粒をロに、足にはヨーチソを塗って 走ったのを覚えております。
 修学旅行も行われ一期生は松島地方へ、私達二期生は関西へ、そして京都の宿は、黒木先生のお兄様 (奥村電機の重役で石川芳郎様)のお屋敷に二晩泊めて頂きました。
 出発の時は、黒沢工場正門前で父兄の見送りを受け、お餞別を頂いて出発しました。

 黒沢村近辺の四季
    摘み草 
 私の母は人間は一年の内二、三回は野の物を食べなければいけないと申しておりました。
春は餅草、嫁菜、つくし等、特につくしは、引込み線の線路に陽炎がたつようになると、一斉に芽を出し、小さな バケツを持って、二、三十分も摘めばバケツー杯になりました。それの袴を取り茄でて灰汁をとり、かたくしぽって、ごま油で 炒め正油で味つけしただけのものですが、私の大好物で、今でも娘の住む鶴見の野原で摘んで、ほんの少しですが、 食べるのを楽しみにしております。
夏になると多摩川の土手から、あかざの芽を摘んで来て、おひたし、佃煮にして食べました。素朴な味で、 美味しいものでした。
    おはぐろトンボ
お盆の頃になると、おはぐろトンボが、ゆらゆらと飛んで来ました。母はお精霊様が来だのだからとってはいけないと 申しました。たよりなげに、ゆらゆら飛んでいる姿を見ると、本当に魂が飛んでいる様に思えて、子供心に何か仏様を見ている 様な気持になったものです。
    とんぼ取り・夕涼み
 夏の陽が少しかたむき始めた頃、用水の上はトンボの群が飛びかい、もち竿、竹箒等をふりまわすと面白い様にとれ、 又おとりのトンボでおつながりにして遊びました。
夕食が終わり、あたりが暮れてくると、皆、団扇をもって、蛸の手橋に集まり、大きい子も小さい子も仲よく話をしたり、 ハモ二カを吹いたり、花火をしたりと、楽しい夕涼みの一刻を過しました。
     蛍狩り
 夜になると、用水の両岸の草の茂みに蛍があかりを灯し、飛びかう蛍のひかりの尾を追って、団扇でおとし、おせんべいの 白い袋に入れると、中で蛍のひかりがよく映るのです。又、蛍を蚊帳の中に放って楽しんだりもしました。
     多摩川用水
水のきれいな用水には、川藻がはえ、その影に小魚がおよいでいたり、水すまし、あめんぼう、げんごろう、 やご等よくとりました。
 水も温んでくると、雨あがりの午後等、男の子が用水につながる小川に入り、両側の茂みを棒や足で魚を追い出し、 用水の入口のところで女の子が四角い網をはって、鮠、鮒、朝鮮鮒、川海老、どじょう等とって遊びました。今でも 朝鮮鮒はきれいな魚だったと思っております。
父母が黒沢村に来た当時は、用水でしじみがとれたそうで、私は弟のおしめの下洗いに行ったり、暮になると障子を洗ったり、 生活にも利用したのです。それも、支那事変、満州事変と戦争が始まると、蒲田地区も工場、アバート等が建ちはじめ、 用水の汚れもひどくなり、魚等すめないドブ川になってしまいました。現在は、多摩川用水の跡の標を残すのみとなりました。
     椎の実・雁
 黒沢の社宅には、たいていの家に推の木、楠が植えられておりました。私の家の椎の木は女で、秋も深くなり 夜木枯しが吹いた朝、庭に出ると、艶々した茶色の推の実が落ちており、それをホーロクで炒って、すきとおった白い実を、 四、五粒位を楽しみながら食べました。
 晩秋の頃の蛸の手橋からの夕景は格別で、後藤家の大きな藁葺屋根、大きな松の木が、暮れなずむ夕映えにくっきりと 浮き出し、その上空を雁の群が渡って行く様は、一幅の絵を見ている様で、子供心に何て美しい景色だろうと思いました。 そして皆で、雁、雁渡れ、と歌いながら、それぞれの家路についたのです。今でも目をとじるとその版画の様な、 夕景が浮んで参ります。
    梅園
 お正月も過ぎ、二月になると、よく古川の梅園に行きました。宗匠頭巾に道行を着た、お年寄りが、梅の木に短冊を さげていたり、大きな藁葺屋根の家では、句会をしていたのでしょうか。年配の方達が集まっていた事などがありました。 私達は梅園の後にある、築山に登り、多摩川の土手の向うに聳える富士を眺めたり、持っていったお菓子等を食べたり、 夕方まで楽しく遊びました。

 坂本先生に教えて頂いた、多摩川の歌の歌詩の一節
  桜よ、多摩川の堤はながしや、うらら、白雲、大富士、
 高嶺、逢かに聳えつつ、秩父、箱根の山桜、桜よ、
  多摩の真多摩の、花びら桜
 ここまで覚えておりますが、私の好きな、歌です。
                 (新蒲田在住)←もどる 
黒沢工場見学    二六年ニ・六 御木本美降
              同行者 小竹幸作 上田仮三 安薔薩雄 浜田大郎
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蒲田駅に近い工場は二万坪、その中半分は住宅区域となって居りかつては百二十軒の工員住宅あり、現在八十軒残っている。 現在家族数千二百、黒沢敬一氏もその中の一軒に住んでいる。此の大きな厚生施設に投じた費用は工場に投じた費用と同額である。
全国の模範工場と認められて居る。現在従業員数百二十名昔も今も変りない、親子代々此の工場に勤めている。 工員はすべて工場内の住宅区域から通っていて外からは通はない。幼稚園と小学校がある。
各家庭は十坪あての菜園を待って居り、工場敷地の半分はかかる菜園である。此の敷地は工員三百名になる見込で作った。 工員百二十名中八〇%は二十年以上の勤続者である。
昼食は上下共に大食堂で一品料理を食する、風月堂のコック長が紹介した現炊事係は工員の為に美味かつ栄養豊富な食事を供する。 黒沢氏は十六オでアメリカに渡り帰国後今日の仕事を作り上げた、常に家族主義に徹し一業主義者である。本年七十六オ心身共に健全で、 毎朝八時半に電車で出動し工員各人の勤怠までしらべる。
会社は会議が多く経営者は組合と対立し之又会議を続け貴重な時間を潰す、 個人商店の特色は主人に奉仕の精神があれぱ事業の全責任を一人で持ち労資共に理想郷に達する事が出来る。 事業は御客様無しには成り立たない、御客様は何時も最も良い物を最も安く買いたがる、其の最も良い物というのはむつかしい、之には精神誠意、 忍耐をもって努力するより外はない。
特別な主人室はない、工場の一部に黒沢さんの机が置いてある丈である、背後には戦没工員達の写真が掛けてあり、黒沢商店の歴史を 語る多くの写真も壁にある。 御木本は震災と第二世界大戦の折二度黒沢さんのビルで仮営業した。その析の祖父が店員と一緒に会食をしている写真がある。
工場内部は整然と整頓がゆき届いてほこりも屑も無い、機械は磨きたてられピカビカ光っている。主人が中を歩いても誰も見むきもしない、 しかし別に忙しい様にも見え無い、我々の目にも良い仕事をしているという事が判然わかる。工場内部は禁煙である。 機械は危険防止の為金網で安全装置がほどこされている。 私の道楽は機械道楽ですという、無駄な機械は買わないが、必要ならぱ唯一つ世界最高のものを買い、 どの機械を見ても世界一流のメーカーのマークが入っている。
ここでは主人も工員もない、部長も係長もない、肩書がなんであろうと皆自ら体を動かして働いている。 どんな高貴の方が見えようと、接待の為に工場をみださない、門を入れぱ何人も黒沢の法律に従わなけれぱならない。 工員は子供の時から工場と共に育ったのであるから誰でも何でも出来る従って製品により製造工程が如何に変ろうとも人員配置に苦労はしない。
テレタイプやタイプの仕事は無事故と高性能を必要とする、良い品を作る為には多くの仕事をしない、 今日も昔も百二十人で然も今日の大をなした事実を深く考えるべきである。
エンヂニヤは二、三名いるそうであるが機械の改良、発明、新機械の製造など総て主人が指図Lて居る。 見渡した所中年以上の男女が多く、皆余裕のある気分で仕事をして居り黒沢の風を身につけている。健康状態も良く不平者の顔は見当らない。
この工場は基礎工事に出来る丈の費用を投じ屋根は嵐に耐え得る程度に軽くした、地質の悪い所だが普通の地震は感じない、 中地震は多少工場全体がゆれた程度に感ずる、大地震でも壊れない、「岩の上に建った家ですから風雨にあっても壊れません」と聖書の話をされた。
黒沢氏は借金をしない、あくまで自立主義の人である「私は年金にも入っておらず、 生命保険もかけていない。幾ら働いても税金にとられてしまう然し天国の預金は相当しているつもりだから私は死んでもおそれない」と。
日清戦争の時は持ち金といえぱボケツトに入っているだけ、全財産たる五ドル金貨を献金した、 今度は(日露戦争)二十萬円を献金しようと思ったけれどもそれでは賞与も月給も出ませんと会計に言われたので十萬円だけ献金した。
工場の時計は五分間遅らせてある。震災の時に時計が五分遅れていたために工員達は食事に行かず手を洗っていた、その為多数の人員が助かったから、 あわてるなと言ってあるのを記念して時計を五分間遅らせてある。 私は商品を作る機械を大切にします、然し機械を動かす機械(人)はもっと大切にします。←もどる 
家族主義、積善自治の工場 模範工場巡り 警視庁工場課
  その一 積善自治の工場  黒澤タイプライター製造所
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一、本工場の概略
東海道本線蒲田駅の南口に黒澤商店工場というのがある。線路を隔てて株式会社新潟鉄工所と相対立している。対立という形容はあるいは当らないかも知らない。 というのは新潟鉄工所は屹立せる大岩石の如きに引比べてこれはまた平たい磐石の様であるからである。そのいずれにしても列車又は電車の上からは一方は 見上げ一方は見下すというニ様の形態が現出されることになる。
 この平たい磐石然たる黒澤工場はその設備と経営上の施政に於て、先に警視庁工場課から優良工場として推薦され殊に管下一般工場主が見学した所である。  もしこの工場が村落にあったならば一つの部落を形成し、この部落はあたかも黒澤部落ともいうべき大家族制度下に円満なる発達を遂げ、世と共に推移って 自活自治、産業報国の赤誠を以て勤勉努カ日も尚足らずという模範部落の一つであろう。
 此所には大資本組織の工場と異なれる数々の施政があるのでその大略を紹介しよう。
二、黒澤丸
 工場主黒澤貞次郎氏は常に自家工場を船にたとえて黒澤丸と称し、船長以下全員(男工一一六名、女工一六名)がこの船と運命を共にする覚悟と責任を 一同に託されるのである。 思うに船は何時でも順風に帆をあげるという様に望み通りに行くものではない。「シケ」を食って何時難破しないとも限らない。如何に全力を尽して 航海の安全を欲しても何時如何なる障害が勃発するかは憶測することの出来ないものであるが、この黒澤丸が今日の安航を続ける迄には随分難を経て来たとの ことである。而して今日無事の航海を続けながら、いささかたりとも国家社会に貢献せんと奮励これ努めているがこの産業報国も微力なる為め遺憾ながら 九牛の一毛、大海の一粟たる程度であるとは工場主の謙譲の見解である。
 三、黒澤丸の建造
 海上に浮べる城は御国の護り、蒲田区志茂田町六十二番地に大磐石の黒澤丸は黒澤工場一大家族の守である。その堅城と頼んでいた工場建築物は彼の 関東大震災のため倒壊したので全員鳩首相談の結果、倒れるのには倒れるべき原因があるからだ、今度は一つ自分達の手で造ろうではないかというので、 一切を自家工場従業員の手で仕上げたのだそうである。 鉄骨鉄筋コンクリート平家建一千八十坪、素人造ではあるが堅牢本位の念入仕事で三年の日子を費し単に工場の建物を自家従業員の手で建築したばかりでなく、 附属住宅から一切の建物その他いささかの人手を煩していないという家屋の自給自足この点だけでも一寸真似は出来ない。
 四、タイプライター
 今日都合生活者にタイブライターを珍しがるものはない。多忙なる事務上の必需品として商家の金銭登録器と一般ではあるが、これが如何に事務上の能率を 挙げているか、この点に就ては人々は割合に無関心な様である。  黒澤氏がタイプライター製造の動機を伺うに氏が弱冠の頃、青雲の志抑へ難く,単身アメリカに渡っていること八年、その間彼の地でタイブライターの工場に 働いた時から胸底の秘策はいよいよ堅く持して動かざるものになった。日本もやがてはこの国に負けない文明国になる。と同時に社会的事務も非常に繁雑を来す のに違いない。そこで今日の言葉で言えば事務の機械化能率化ということに考え及んで一つこの方面の仕事をやろう、それにはこのタイプライターは 持って来いである、とこの決心を懐いて帰朝後本事業は創められ、多年の辛苦と研究を経て今日の盛運を致しているのであるが、翻って考えて見ると氏の 渡米したのは明治二六年で氏が十九歳の時である。明治二六年といえぱ我が国の国会が始ってようやく四年目で日清戦争の前年である。当時我か国は外国文化の 輸入に汲々たる時であったが、単身海外に渡航するの勇気ある人はそう幾人もあった訳ではない、連盟脱退後の日本、メード・イン・ジヤパンの世界市場席捲、 隆々たる日本の存在は世界の隅々までも響き渡っているが、当時の外国は横浜あるを知って初めて日本という国があるのかと首を傾けたという話を思出す につけても当時の情勢が追想されるではないか。これにつけても氏が在米八年間の労苦は並大抵では無かったであろうことを想像するに難くはない。  それは兎に角として、氏がタイブライターに着眼したのには、今一つの理由は日本の仮名を欧式に則ってというのが今日世に出ている和文スミス タイブライター製造の始りとなったのであるという。
 五、一粒の良種
 「一粒の良種が幸に土地を得て暖き時の恵に依って芽をふき、それが従業員諸君の心からなる丹誠により、年と共に成長して苗となり、木となり、 枝を張り葉をつけて大木となる。本工場も創業当時は矢張り一粒の種にしか過ぎなかったのである。  明治三十四年現在の営業部を銀座六丁目に事務用器具の営業を始め、二階と三階を修繕工場として二三人の職人がいたのに過ぎない。その後十年間に 於ける事務の機械化と能率化はどんどん進歩して、なかんずく氏の在米当時なお幼稚なりしタイブライターの実用化を思わしめることの切なるものがあった のであったので、大正三年氏は現在の工場長庄野篤郎氏を渡米せしめ欧文タイプライター製造の技術を習得せしめた。大正四年初めて二台の和文スミス タイブライターが大阪中央電信局で試用されたのであるが明治三十二年氏が試作して以来実に十八年目である。
 六、電信機
 従来の電信は受信機の発する音響を手記していたのであるが、この手記に代ったのが和文スミスタイブライターである。現在各所の電信局に使用されて いる約五百台のこの和文 スミスタイプーライターは、これなき以前に比して如何に我が国電信界の能率を高めたか、文字,数字、記号の三種合して八十四、電信局員の指が 機上に躍っているのは実に目覚しい限りであるという。  本機を世に出してから以来これが改善進歩に力を致すと同時に、これを発信、受信の両機に装置して、いよいよ電信事務の機械的能率化に貢献せんことを 企図し、これが研究と実験の好果を収め得たので、近く自動印刷電信機として奉仕することになるとのことであるが、これが使用される様になった暁は、 現在一分間八十の送信能力が、一躍二百七十という約三倍半にスピード化して、電信事務上のエポックとなるは勿論、益々多忙なるべき我が国電信界にとって 誠に慶賀に堪えない次第である。
 七、清潔整頓
 清潔整頓は工場を快適ならしむぺき一要件たると同時に、危害防止の一方法たるは申す迄もない。  将来の準備も考えられてあるのではあろうが、現在の作業に対して十分の面積が各個の作業に与えられてあり、各自が自分の工場としてその持場々々に 誠意を以ているからこの辺の注意もよく届いているので、工場長が管理に骨が折れる様なことはいささかもない。  本工場ではタイプライターの外に番号機、数字打抜機その他事務用の機械製作部、印刷製本部、木工部の三部の職場に分れているが、その何れの場所を 見てもきちんとしたものである。
 八、月給制度
 従業員は全員月給制度で年二期の賞与がある。月給制度は諸種の便宜上これを採用しているのではあるが、黒澤丸の乗組員として一大家族の一員として 伝来の忠実性はその出勤に於て、その作業に於て何等の懸念を要しないし、病気その他の個人的又は家庭的事故のあるは人生何人も免れざる所、これあるが 故に生活の不安に焦慮せしむるが如きは家庭的生活を楽しめる者の採らざる所、むしろかかる際にこそ尽すべき情宜の家族愛にその根本精神がある。 故に安心して職務を励み各その職分を全うするの精神に至っては、父母兄弟姉妹が各その分に応じて家業に尽すのと何等の変りがない。
 九、昼食
  食堂は非常時の際は何時でも工場として使用出来る様にしてある。此所にも周到なる用意の程がうかがわれる次第であるが、全員昼食はこの食堂で 認めることになっている。  直ぐ側に住宅があるのに特に一堂に会食するのは黒澤丸が難航時代を想い起すよすがともなり、一日一回全家族の顔合わせともなり、その間に 有言無言の親愛さが加わり一家族全体の健康と今日平和の仕事に勤務し得る感謝の念も起るという工合に色々の有益のことがある。
 十、住宅
 全従業員に住宅が給せられている。一号住宅は六畳、八畳、四畳半、二畳の四室、二号住宅は六畳、四畳半の二室、いずれも一戸建、三号住宅は 二号と同様六畳、四畳半の二室ではあるが一棟二戸建となっており総ぺて百二十戸ある。  そこらの貸長屋式の住宅ではない。皆自分の家族の一員が住うのであるから、それぞれ普通の住宅同様に出来ている。その上誠に気持のよいことには 何の家にも相当の庭があり、囲いがあって樹木か沢山植付けられてあることだ。これとて種を蒔き、挿木をし、又は苗木から育て上げたというのだから嬉しい。 その上電燈は工場の方から配分されており、家屋の建方も全部一階建で区画整然たるものである。
 十一、浴場及水道
 男女二室の浴場があり、男子は終業時の五時より、女子は家庭の都合を考えて四時から入れるようになっている。  水道は地質の関係からこの付近は一帯に植物の生育が思う様に行かないのみか飲料水に困難である。この飲料水には一苦労したとのことであるが、 約二里離れた所に水源地を見付けその所から私設水道を敷設している。水の悪質と健康、これが精神上の影響等をも思い合せる時望んでもなき善い施設と 言うぺきであろう。
 十二、学校
 住宅の外れに黒澤幼稚園並に黒澤小学校がある。目下園児四十名、小学校児童一年より六年迄合して百四名収容され六人の先生と保母に守られている。
 十三、町会
冠婚葬祭その他社交的一切の事柄は、住宅全体なる町会がきりもりしている。この 町会は単に工場関係者の内面的方面のみならず、一般外部の町会へ交渉応接の機関となっている。
 十四、植木品評会
  従業員中には植物の愛好家が相当に多く、毎年朝顔、菊、さつきの品評会が行われる。これは期間的趣味のこととて、毎年楽しい行事となっている。
 十五、菜園
 工場の左右には道路を隔てて約二千坪の菜園がある。無論工場の敷地内ではあるが、空き地のままに遊ぱせておくのはもったいないので、野菜作が始った のである。各戸共、若干坪宛の土に親しめる所で、これがまた従業員並家庭の大変な楽しみである。葱、大根、かぶら、ほうれん草、思い思いの野菜が 得られるので.自給自足とまでは行かない迄も町の八百屋さんには縁が遠くなるという。
 十六、家族主義の根本精神
「積善の家には余慶あり」これは工場主唯一の祖先よりの遺産であるという,場主の両親は非常に善人であったので、その余慶を以て氏の今日があることを 喜ぶと同時に、この唯一無二の遺産はまた子孫に伝承して積善生活の本道を離れしめない様にしたい。必ずや子孫の身の上にも余慶あり。この積善生活を 喜んで行るであろうことを信ずる。一切の施設は今日言う所の福利施設に相当するものではあるが、これは求むる所を先にして行っているのではない。 祖先伝来の積善生活たる遺産を使っている迄である。←もどる 
「新版富豪物語」 岩倉実三 月刊「オール生活」1953年2月号 タイプライターとともに五十年 15
 高額所得の日本一
 毎年の三、四月になると、大蔵省の国税庁から、前年度の所得決定額が、全国の首位者どころを集めて、ズラリと賑々しく 発表される。ジャーナリズムがまたこれを採り上げては、いわゆる「新版長者番附」として、デカデカと年中行事のように 社会の視聴をそばだたしめる。
 一体誰がいくら儲けて、いくらとられるのか、誰がいくら稼いで、いくらしてやられるのか、他人ごとながらも、全くの 無関心ではおれぬ世人は、それらの数字をみて、大きくうなずいてみたり、小さく溜息をついてみたりする。そうして、自分の 一年分が、彼等の何日分、いや場合により、何時間分に当るかをそッと計算してみる。或いは昂奮し、或いは憂鬱になり、 人さまざまに何事をか考えさせられる。
 人間というものはおかしなもので、自分のふところは余り気にしないくせに・・・事実は、分り切っていて、今更気にしても しようがないのだが・・・他人のふところは、その割に、馬鹿に気になる。さもしいといえばさもしく、いじらしいといえば いじらしい。そこで、恒例の「新版長者番附」の発表ともなると、自分には何等関係のないことながら、誰しも一応、ホホウ といった面持ちで、こくめいにそれを読みただしてみる。
 ところで、その官製長者番附の中で、何処の誰やら、また何をやってどう儲けたものやら、一向エタイの知れぬ新興成金ばかり、 あわただしく入れ代り、立ち代り、彗星の如くあらわれ、彗星の如く消え去って行く中に、毎年きまって同じ額を出しつずけ、 しかも、だんだん上位に席をすすめて、昭和二十六年度の発表で、ついに全国一の高額所得者となって、その名を天下に とどろかしたのが、「東京・タイプライター、印刷通信機製造」という割註をつけた黒澤貞次郎である。
  あわてもの揃いで、他人の商売ばかりがよさそうにみえる世人は、タイプライターの黒澤がそもそもいかなる人物で、 いかなる経営をしているか、肝腎カナメなそれを知らないで、ひたすら、「タイプライターというものは、こいつ、時節柄 馬鹿にいい商売とみえる。」
 と、自分がタイプライター屋にならなかったことを千載の恨事として、その発表記事をねめつけるかも知れない。
 しかし、それは大きに間違い、あまりにも早合点に過ぎるというものだ。
   金持ちの一生態
 金持ちは人にあいたがらない。したがってまた、あまり世間へも出たがらない。
 たしかに、これは金持ち共通の、金持ちであるということそれ自体を資格ずける一つの生態であるらしい。昔からの金持ちが そうであったと同様に、新しい金持ちが、金持ちになったことを証拠立てる最初の変化は、まずむやみと人にあいたがらなくなる ことである。そうして、時には反体に、やみくも世間へ名を出したくてしようがなくなる手合もあるようであるが、概して、 本当の大金持ちになってしまうと、本当に世間へは出たくなくなってしまうらしい。
 「新版富豪」の物語主人公に見立ててともかく、一応は御本人に御目見得しておかずばと、折をみはからって、 黒澤タイプライター氏に会見を申し込んだら、果して予期の如く、御丁重なる文字をつらねた御辞退の返書に接した。 タイプライター屋だから、そこは商売物のタイプライターで打って来てもよさそうなのに、半分だけは印字器で埋め、半分だけは 自筆らしい、さらさらがきであった。そうして、「店主」とタイプでいかめしく打った下に、「黒澤貞次郎」と ペン字の署名がしてあった。
 あとで、いよいよの会見を遂げてみると、この「店主、黒澤貞次郎」はなるほどぴったりとした表現であって、 全部タイプで打ってもいけないし、全部肉筆描きにしてもいけない。ハイカラなようでもあり、ハイカラでないようでもあり、 新しいようでもあり、新しくないようでもあるのが、新版長者の筆頭第一、黒澤商店主黒澤貞次郎の印象であった。
 普通一般なら、会社組織にしておるであろうところを、まだ個人経営という形で頑張っており、社長さんと呼ばるべきところを、 店主さん、旦那サマと呼ばれている。仕事以外、商売以外に、然るべき業界、社交界の集りに顔出ししてもよさそうな地位年齢 にもかかわらず、黒澤商店主という唯一つの肩書しか持っていない。カナモジ会、ローマ字会の会費だけは払っているが、 それにも絶えて出席したことがないという。そうかと思うと、一業一人で、最高級な職業人の団体であるロータリー・クラブには、 これはまた大した熱の入れようでもあるらしい。
 新旧混交、和洋取りまぜ、人と話をするにも、常に適当な日本語が思い付けないというので、いつもコンサイスの英和辞典を 手離さないでいる御仁が、どこまでも古めかしい「個人商店のダンナサマ」で頑張っているのである。これがまた 新版富豪三役どころの、大金持ち黒澤貞次郎の特殊生態である。
 全国一の正直者?
   忙しいにも忙しかったであろうが、一応のインタービュー(記者会見)を断って来た黒澤老もまた矢ッ張り長者のものぐさと いうやつで、余計な人間には出来るだけあいたくなく、うるさい世間には出来るだけ顔出ししたくなかったものらしい。
 金持ちで人にあいたがらず、世間に出たがらないのは、あえばあい、出れば出ただけ、それだけ必ず損をする・・・というのも、 ある程度事実かも知れぬが、それ以上にもまた、損など少しもしないでも、損をしそうな恐迫観念にかられる。それが 知らず識らずに、人嫌いとなり、出無精となって特殊の生態化する。これはもちろん、金持ちでもないものの金持ちの 心理を岡焼半分に解釈した結果であるが、黒澤老にいよいよあってみると、必ずしもそうとばかりは限らず、 有り体は、あまり金持ち顔をして人にあい、世間に顔出しするのが、とてもてれくさく、恥かしくてしょうがないという、 奥床しい謙遜からでもあるようであった。
 こちらは唯だ一度あえば、そうして、何かちょっとしやべって貰えば、それでもうよろしいのだ。それでよろしい・・・それが、 初めはなかなかの難物だった。しかし、いよいよあってしまえば、人なつッこい、話好きな、ちょっとでいいつもりが、大いに 語っで呉れる黒澤老人であった。
 「世間ではわたしを、大変な金持ちかなんぞのように思っていますが、金持ちでも何でも御座んせん。ただ一生懸命に商売をはげんで、 出来るだけ税金も納めたいと思っとるだけなんです。わたしより外に、いくらでも金持ちで、いくらでも稼いでおられる人はありますが、 そんな方はみな法人組織(会社)にして然るべくやっておられますから、わたし共のようなものが、つい全国一の納税者ということに なってしまうんです。
 税金はなかなかに高い。しかし、正しく計算してみると、それが法的に正当なものとなっており、いやがおうでも、そう決っとるから、 そう出さんならん。税金を払ってしまえば、それこそあとには一銭も残らん。それでも、生命までもということにはならぬので、 一人前に喰わして貰って、働かせて貰って、社会に貢献させて貰うんですから、まア有難いことですよ。わたしが全国一になった というのも、わたしが全国一に儲けたわけでなく、ただ全国一に要領がわるいか、全国一に正直者であるかというだけなんです。 ねえ、そうじゃ御座んせんか。」
 この最後の、・・ねえ、そうじゃ御座んせんか・・で、黒澤老は上体を前かがみにして、両手を繩のようにより合せて、とても うれしそうにしなを作る。いわゆる「日本一の馬鹿正直」を、あたかも、自分自身に認めて、自分自身に満足し切っているようすである。
 税金といえば、多額納税であろうと、小額納税であろうと、乃至は脱税逃税であろうと、不満と泣言を洩らさないものはない 今日の世の中に、おお何んと、これはなかなか見事な態度では御座んせんか。黒澤貞次郎とは先ずこういう人物である。
   模範納税のしにせ
 そこで、その黒澤さんの納税振りも、言行一致に、まことに立派だ。ウソもなく、アイマイもなく、マッタもない。いつも期日までに ちゃんちゃんと完納だ。それこそ模範者中の模範、国税庁の大のホメモノになっている。
 「黒澤さんには全く頭が下るですよ。日本一になって頂いて、それで何んのいざこざもなく、完納のトップを切って頂くんです からねえ。」
 これは、何から何まで、黒澤さんを頂いてしまっている京橋税務署の感嘆である。
 黒澤商店(銀座六丁目)との古いおなじみである京橋税務署の語るところによれば、黒澤さんは決して戦後の出来星なんぞではない。 昔からの歴っきとした多額納税者の一人で、いま試みに、手元に残っている「昭和十四年度東京府下多額納税者番附」−東京財務管理局作製− というのをみてみると、納税額五二、一〇八円三七銭(今日の一千万円にも相当するか)とあり、鍋島、浅野、阿部等の諸大名資産家に次いで、 前頭二枚目にちゃんと立派に納っているものだ。
 もっとも、この多額納税者名簿というのは、その当時の多額納税議員(貴族院)選出の母体原簿で、地租及び営業収益税を主としており、 普通一般の所得税は含まれていない。したがって、現行の高額所得者名簿とは可なり異った性質のものである。だが、不動産所有が極めて少く、 純粋な個人営業の収益納税だけでこのへんの大物にまでなっているところから察すると、黒澤商店の実態実力は、十年、二十年前から、 すでに個人経営所得では、かくれたる日本一、二、ですらあったことがうなずける。だから、今更の黒澤貞次郎に驚いていては、 驚く方の認識不足も甚だしいというわけになる。
 つまり、新版富豪日本一(二十六年度)の黒澤タイプライター氏は、敗戦でバタバタいかれてしまった数多い市井富豪中での、 唯一人といってもいいほどな、生き残り「戦前派」富豪の古ツワモノなのである。決してそんじょそこいらの、新興出来星成金とは一緒に みることは出来ない。黒澤老人に老舗主人らしい、古風なバックボーン(背骨)が具わっているのも、正にこれあるかなである。
  こじんまりと堅実に 税務署の御先棒をかついだ摸範納税者物語りはこれくらいにしておいて、さて、その黒澤貞次郎個人の 所得決定額をのぞいてみると、
 二三年度  二三〇〇万円
 二四年度  二、九五八万円(全国六位)
 二五年度  四、二四一万円(全国一位)
ということになっており、逐年の増加は実にめざましいものがある。昭和二十五年度分の日本一は、翌三十六年三月発表の際の順位で、 これはその後更正決定で追い上げられた真珠(佐世保・高島)、繊維(東京・佐藤)のダークホースがあって、実際にはいくらかその 序列も狂って来たようであるが、「正直申告」ではやはり日本一、「私はこれだけ確かに儲けました」という本人承知のものでは、 誰一人黒澤の右にでるものはなかったのである。
 つゞいて、二十六年新設の富裕税申告では、ギリギリ決着のところ、二億四千六百五十万円の査定を受けたといわれている。いわば、 これは公認資産表ともみるべきもので、新版富豪としても最右翼の一人に数えられなければならぬ黒澤さんだ。
 「税金を納めてしまえば、あとには一銭も残りませんが、それでも一人前に喰わせて貰えるのは、何んとも有難い次第で御座んして・・・」 という、その有難い次第が、赤手空拳から起って、間口二間、奥行五間の借家から出発して、タイプライター屋五十年の苦労で、 これだけの大きな累積となったのは、何んとしても異とするに足りよう。しかも、この黒澤タイプライターは、他の新版富豪の 諸事業の如く、何万、何千人の従業員を集めて経営されてはいず、十年一日、一貫して、百二、三十人程度の店員とエ員で つづけられて来ているのには、誰しもその意外に驚かぬものはない。
 こじんまりと家族的に、そして、最大よりは最善をめざす・・・これが終始かわらぬ黒澤経営のイデオロギーであって、 今以って個人組織であり、今以って店主さんであり、旦那サマであるゆえんでもあるが、昔からムリな拡張を一度も試みなかった ところに、あえて資本を他に仰ぐ必要もなく、会社組織にして折角の家族主義に水をまぜることもなかったのである。
 ついでながら、黒澤商店の現勢を御紹介しておくと、店主御大が黒澤貞次郎(明治八年生、七八歳)、支配人として銀座の 店を受持つのが長男敬一(ケンブリッヂ大学出身、五一歳)、工場長として蒲田の工場を担当するのが三男張三 (横浜高工機械科出身、四三歳)、従業員は前にも述べたように、 一貫して常に百二三十人を越えない。もともと停年などといったものはなく、七十でも八十でも働けるあいだ、 その働ける部署を考えてやって働かそうということだ。また店員、工員の新規採用はすべて従業員の家族に限り、 蒲田工場の周囲にはその社宅が百戸ばかりズラリと並んでいる。二万坪にも及ぶ敷地内には、農場、医院、娯楽場等もあり、 戦前までは、幼稚園から小学校さえも建て、まるで一つの「黒澤村」理想郷をなしていたものである。
   黒板にかかされた漢字
 黒澤貞次郎は東京日本橋に生れた。小学校を出てすぐ、十六歳でアメリカに渡った。
 その間にどういう手ずるといきさつがあったか知らぬが、向うで最初に職を得たのは、ニューヨークの或るタイプライター 製造所で、それについて、自ら語るところはこうだ。
 「その頃はまだ、アメリカでもタイプライターは新製作品で、一般的にはそれほど実用化していなかった。しかし、私は その将来性を見て取って、一所懸命に修繕や組立てについて勉強した。本当の仕事は工場内の掃除掛りであったが、 掃除毎に出て来るタイプの部分品とか、釘、姻鋲などを集めて工場長へ差出していたのが信用を博して、だんだん仕事の 重要部分が覚えられる方へ廻して貰えた。そして、足掛け十年のうちに、タイプーライター製造の技術をすっかり修得する ことになったのである。これで、私はとうとう一生をタイプライターと共に暮すよう、神様からのおはからいを受けてしまった。」
 そこで、もう少し立ち入って、どうしてアメリカに興味をもち、どうしてタイブライターに精魂を打ち込んだかときくと、
 「私はこれで、なかなかガクモンの出来た方で御座んしてねえ・・・」
という、ふるい自慢話から改まって出直した。
 それによると、黒澤少年は小学校における飛び級の秀才で、卒業間際には同級中の最年少者であった。この最年少者を先生がまた 特別にひいきして呉れて、何かむつかしい問題が出ると、それ黒澤、やれ黒澤というわけで、年ばかりいって頭のわるい連中の みせしめになったものらしい。或る時、先生の指名で、黒板に大きく、
 「猫が鼠を噛む・・・」
とかかされた。得意満面で、彼はさっそくかいて引き下ったところ、先生は失望顔で、
 「これはちょっとちがう。カムという字の噛は字画がちがう。」
といった。黒澤少年の失望は、先生の失望以上であった。そうして漢字はどうしてこうむつかしいんだろう。 日本語にはどうしてこんなむつかしい字を一々覚えなければならぬだろうと、今ならば、さしずめ国語改良論者に、 「それそこだ」といわれそうな、大きな根本的の疑問にぶっかった。そこで、こんなむつかしい字を覚えなくても、二十六文字 さえ知れば何んでも十分に勉強出来るアメリカヘいって勉強しようと、えらく飛躍したことを考えたのである。
 渡米の動機と目的がこういうのであったから、偶然に当たったタイプライターの製造事業が、たちまち、彼の興味と熱心とを とらえてしまったのは当然である。いちはやく彼は、タイプライターで身を立てることを決意すると共にいわゆる本場英語で、 何から何まで勉強するように努力した。だから、今でも一々の会話に、適当な日本語を見付けるためにコンサイスが必要なほど 不便な、すっかりあちらの人になり切っているのである。
 それからもう一つ、彼は米国滞在中に、日本文字でも機械で打ち出せる、どうかして打ち出せろようにしたいものと考えた。 英文タイプでも、頭文字その他の記号を含めると、日本の五十音に近いだけのキイ(打点)になる。これなら日本のカナタイプも 必ず成立するにちがいない。成立させずにはおかぬ。こういうので、とうとうカナ文字タイプライターまで苦心の末 完成してしまったのである。
 さて、こういうことになると、春秋の筆法でいって、「猫が鼠を噛む」の、噛むの字、タイプライター富豪黒澤貞次郎を作る、 というわけで、世の中もなかなか面白いことに相成って来る。
  裸一貫から億万長者へ
 明治三十四年(数え二十六歳)、アメリカでもそろそろ一般実用化の域に入ったタイプライターを土産に、彼は十年振りの 日本へ帰って来た。その方の知識と修練も十分、普及化の時機も絶好、それに多少の貯えも出来ていたので、東京に落ちつくなり、 彼はさっそく延二十坪ばかりの小さな家を借りて、タイプライター販売並に修繕の「黒澤商店」を開いた。それは住居、兼店舗、 兼工場といったもので、ニ階の廊下に空箱を並べて、手廻しの旋盤機を一台据えつけた程度のことであった。留守番はおいたものの、 もちろんまだ独身、何から何まで、一人でコマ鼠のように馳け廻った。しかし、本場仕込みの年季が入っているだけに、 また当時としては大した競争者もなかっただけに、彼の仕事は順調に、手がたく、すぐ大きくなって来た。 開業翌年の三十五年に、印刷局へ初めてアメリカからライノタイプを入れさせたのも、実は黒澤商店の御手並みだったのである。
 生来自己宣伝のきらいな黒澤も、新機、新商品としてのタイプライターには、宣伝の秘術をつくさねばならず、 またつくしもした。ただし、それはあくまでも文化向上のための印字機普及であって、頼らんかな、儲けんかなの商買宣伝では なかったという。そうして、印字機の普及と改良とには熱中したが、ムヤミと自分の事業を拡張することはひかえて来た。 こじんまりと、そして最善最良へというのである。この方針はその後の五十年を通じて、今に変っていない。黒澤商店の営業と 生産スケールは、前にも再三述べたように、従業員百三十人を最大限度としている。手堅いといえば手堅く、 消極的といえば甚しく消極的である。蟹は甲羅に似せて穴を掘るというが、彼はしきりと、「私は私相応なことしか出来ませんで」と、 あまりにも御謙遜を極めている。或はその謙遜と手堅さが、彼の比類まれなる長所となって幸いしているかも知れない。
 現在における黒澤商店の主要業務は、スミス・コロナ・タイプ販売の、日本総代理店であると共に、 通信事業用のテレライト(自動印刷電信機)製造の二つである。しかも、億万長者の黒澤店主は、自動車にも乗らないで、 国電利用の店舗工場往来を、日にち毎にち元気でつづけている。儲かるのが面白いのでなく、 働けるのが面白いからである。
「実業の日本」誌1951年5月1日号 16
所得税長者番付第一位のタイプライター王・黒澤貞次郎氏 甲賀一郎
   戦後の成金王者として、世間に宣伝された者も次第に影をひそめ、永年培かった実力に物いわせる財産家が、再びフットライトを浴びてクローズアップ されてきた。
その中にあって、毎年、新聞紙上を賑わす長者番付に、この十数年必ず名を連らねている人がある。
 それは、本年度所得税四千二百四十一万円で第一位、富裕税では二億四千六百五十万円と報ぜられている、黒澤貞次郎氏だ。ではこの黒澤氏とは一体どんな男で あろうか。財産家としての氏を知る人は多い。しかし、日本文化に貢献してきた氏の業績を知る人は、案外すくないのである。記者は一日、蒲田郊外にある黒澤商店、 タイプライター工場を訪ねて、氏が如何にして今日を築いたかその半生の努力の跡を訊いてみた。

  むずかしい漢字
 「猫が鼠を噛む」たどたどしい文字が黒板に大きく書かれてある。明治初期の東京某小学校の一教室である。秀才だった少年貞次郎は、学年をとびこえて兄さんみたいな 同級生と机を並べていたのだ、最年少者として鋭い頭のよさを示していた彼に、担任の先生が級中で誰も書けなかった字を書かしたものである。書き終った彼は満面 紅潮して壇をおりた。しかし、彼の軽い満足と得意も、教師の、「噛むという字の画が違う」の一言によって、瓦解して行くのを覚えずにはおれなかった。なぜ、 こんなに難かしい字を覚えなくてはいけないのか。早熟だった彼は外国語に比べて、その不必要なる困難を痛感するのだった。そうだ、先進国といわれるアメリカに 渡って、勉強しよう。旧来の考え方のみを教えようとする日本では、将来の期待はもてない。「こんな漢字が書けなくては駄目だ」とヤリごメられた鬱憤も、 こう考えてくると大きな希望に変わってゆくのだった。
 英語を本場で習いたい、それだけの希望がアメリカヘ渡る動機だったのである。
 勿論、「人に頼らずに独立してゆく」という少年の勝気さは、三ツ子の魂百までの諺のとおり、黒澤氏の根本信条となったことはいうまでもない。その頃に、 タイプライターで身をたてることなどは、思いもよらぬことだった。

   ニューヨークのタイプライター工場
 十六歳、待望の地ニューヨークにきてみると、見るもの聞くもの珍しくないものはなかった。まず、最初に職をえたのが、ニューヨークの、とあるタイプライター 製造所である。
彼独特のねばりと不屈の精神をもって、昼夜の距てなく働らいた。まっさきにやらされたのが、工場の掃除である。大きな場所だけに一回の掃除をすると、 タイプの部分品とか、釘、螺鋲などが相当集まる。それを一纏めにして工場長などに渡したものである。これが黒澤氏に対する信用となったことは当然であるが、 それにも増して彼の勉強ぶりは、賞讃の的となった。世話にも「門前の小僧習わぬ経を読む」といわれているが、俊敏な彼はタイプライターの製造、修理法を手引される 時にはもう一応の理論を心得ていた。だんだん仕事を覚えてゆくうちに、彼の脳裏をフトかすめたものが、小学校時代の出来ごとである。日本字でも文字を打つ機械が 出きたら、どんなに便利であろうか。英文タイプライターでも、頭文字やその他の記号を含めると五十音と同じだけの数字になる。こうして弛ゆまざる努力と研究を 重ねた結果、遂にカナ文字タイプライターの完成となったものである。
 足掛け十年の米国滞在中、タイプライター製造を修得したのみならず、最初に念願した本場の英語は建築学にしろ工学にしろ、自然科学を学ぶのに、どれほど役立った かは、はかり知れないものがあった。彼の持論によれば、書物は知識の泉であるともに、技術の宝庫でもあるというのだ。
 明治三十四年、アメリカでもそろそろ実用化の域にまで発達したタイプライターをお土産に帰国したのが二十六歳の時であった。
 東京に帰えると早速二十坪ほどの家を貸りて、二階の廊下に空箱を置き、手回しの旋盤を備えつけた。節約を旨とする彼の事業経営は、机もいらない、椅子もいらない、 その代り利用できるものはフルに利用することから始まった。他人よリ資本を借りて事業を始めれば、失敗した時に必らず迷惑をかける。これほど企業家として 不本意きわまることはない。この考え方が黒澤氏の今日を築いた原動力となったことに、疑いをさしはさむ者はないであろう。

    成功した電信印刷機
  何分、毛筆ですべて認めなければならぬ時代だ。文字を打つ機械・・・まず氏の仕事の第一歩は、この機械の有効さを説明することから始めねばならなかった。 自己宣伝の嫌いな彼も、これが日本の文化発展に必らず補益するという自信の前には、必死の努力をつくさねばならない。先進国でやっと普及し始めた、 タイブライターの有望性をいち早く洞察した、その慧眼にはまず敬服せざるをえない。
終戦直後はじめて日本に特派された新聞記者が、車中でパチパチと機闘銃を射つようなスピードで膝にのせたタイブを操り原稿を書いていた。これをみた某会社の重役は、 この機械文明の一端に、日本を破る力が秘められておったのだと会う人ごとに、話していたという。しかし、これが何十年も前に黒澤氏によって、宣伝されておったの だから、まさに霄壤の差を感じさせるものがある。
 また、明治三十五年、印刷局にはじめてライノタイプをアメリカからもってきて、据付けたのも黒澤氏であるという。  それはさておき、明治三十二年カナ文字タイプを完成したが、日本に帰ってこれを商業的に売出すとなると、とてつもない障害に気がついた。カナ文字会とか ローマ字運動などをやっているのはほんの一部の人達がやっとロに出し始めた時だ。
それも物好きのキチガイ的沙汰と思われていたのだし、第一会社でも銀行でも、官庁でも、カナ文字だけを使っていろところは、ありはしない。これでは経営的に合う はずがない。しかし、こんなことでヘコたれる人ではなかった。エジソノやフランクリンの本を小さい時から、読んでいた黒澤氏にある日チラリと浮んできたのが 電信である。そうだ電信文なら全部カナ文字だけである。手で打たれる音を耳で聴きとる電文には間違いもある。何しろ人間は生き物であるから疲労の度や気分に 禍いされることが大きい。機械で打って機械で自動的に復字されるなら、こんなに素晴らしいことはないだろう。かくして考案されたのが印刷電信機であった。  これが黒澤氏の財源となったのはいわずのことである。この機械は早速各新聞社に採用され、その性能を謳われたという。これによって、日本の通信文化に どれほどの寄与をなしたか、今更、くどくどしく述べる必要はないであろう。
 現在、黒澤工場で作られているのは六単位印刷電信機といわれ、電気的に動作されて百里でも千里でも、遠近にかかわりなく電流の到達する限りは使用できる。 受信速度、毎分二百六十八字の高速度でモ−ルス符号によるものより、三倍半の能率をあげうるという。

   苗木を育てる 経営法
 現在の蒲田工場はこの地方の草分けであった。設計もすべて黒澤氏の手によりなされ、それも漸進的に増築していったのだ。資本は絶対に他人に仰がない主義を 奉じてきた氏が、無理しないで自然の理に即応して、今日の大をなしたのにもいわれがある。サー・ロバート・ボールという人の書いた、「ストーリ・オブ・ヘブン」 (天体の話)は、氏の伴侶の書であった。これには太陽系の話、恒星との関係、天体の運行などが、書かれてあるが、悠久の何千万年という天体は、常に一定の 法則にしたがって、その活動を休むことがない。人類の繁栄もすべて、これに学ばねばならないというのである。
 黒澤氏がとってきた経営法もこれに類似している。植木屋から買ってきて植えた樹は大嵐が吹けば倒されてしまうこともある。これに反し、苗木から育てた樹は、 雑草をとり手入れさえしてやれば、しっかりした根を大地に張って、暴風雨にも地震にも耐えうるものだ。植木のごとく支え棒をする必要はない。他人に資本を 仰いで企業をはじめるのは植木するのと同じだ.経済不況に見舞れて支え棒の銀行に駈けつけても遅い。だが金が出来るまでは仕事ができないといっているのでは、 一生たっても事業ができるものではない、蟹は甲に似て穴を掘る。ここから一歩一歩前進しなければならない。

   奏功した家族主義
 黒澤工場は、したがって今までに一度だって、新聞募集で工員を採用したことがない。事業の将来性が一般に了解されてくると、つきあいのあったブリキ屋などが、 職人をつれて仕事を手伝おうといってくる。遠縁にあたる誰れ、彼れが働きたいといってくる家庭的工場だったのである。
 工員も全面的に黒澤氏に信頼をもち、氏も家族的待遇をもって、これを世話してきた。二万坪の工場敷地には、その後拡張工事がつづけられてきた。社宅も 百二十世帯まで入れるものが出きたが、空襲で四十軒は焼失してしまったものの、この家族的紐帝には何ら変りはないという。近所に学校ができるまで、 工員の子供達は遠くまで通わねばならなかった。家族的経営をやってきた氏は、まず幼稚園、小学校を建て、子弟の教育に当った。しかし、これも 国民学校と改称される頃には、創立の趣旨と反するというのと付近に学校が設立されるにつれて廃止してしまったが、その任務は完全に果されたのである。 現在でも一世帯十坪の菜園が作られているが。これは独立白尊の心を養い、自然の恩恵と人間処世の術を説くために、始められたというが、野菜の欠亡時代には 大いに重宝がられたものであった。
黒澤氏も労働者の苦痛は、ことごとく体験してきた。世人はそれは前世紀のアメリカの体験だったというかも知れない。しかし、「私は工員と同じ家に住み、 同じように働らき、利益は公平に分配している」というのも事実なのである。大正昭和の不況期にかけて、さらに終戦後にも一人の争議計画者も出さなかった。 家族的経営法は完全に凱歌を奏していたのだ。愛の工場と呼ばれたのも、またムベなるかなである。銀座に鉄筋コンクリートの黒澤ビルを建築するに際しても、 黒澤氏は建築に関する内外の書を読破して皆で検討している。人間は心のもち方一つでどうにもなるのだ。
ここに一つのピンがある時も、これは何で作られ、どの位の人手をへて、どうして作られてゆくか。そういうことを家族の一員として皆で研究してゆく。 こういうことがわかれば、自分達の作っている製品が、どのくらいのコストがかかり、どの位の額で売られてゆくか。こうみてくると自分達の得てる給料が、 果して妥当なものであるか、どうかがはっきりわかってくるというのである。「私は今まで個人経営をやってきた。人からもなぜ法人にしないのかと問われるが、 家族的経営を絶対疋しいと信ずるから、私の生きている限り、この方法は改める必要はないと思う」と自信のほどを、ほのめかす黒澤氏でもある。

    千万長者の弁
 「税金はなかなか高い。しかし正当に計算してみるとそれが法的に正当なものである。税金を払って了えば、後にはそれこそ一銭も残らない。しかし、 税務署だって、生命まで奪ってしもうことはない、一人前に喰わして貰って、それで社会に貢献できるのであれば、何のことがあろうか」と。実に堂々たる 長者番付第一人者の言葉は、聞く人をして畏服せしめるものがあろう。
 本を読みさえすれば、何でもわかるという黒澤氏は六法全書を熟読して、友人の弁護士に、これでやっと君達の仲間と一緒に話ができるといった。ところが 弁護士は即座に「君、そんな無駄な努力はやめたまえ。正直に仕事をしている人に法律などは、あまり必要はないものだよ」と答えたという。黒澤氏の経営法、 処世術が如何に正しいものと評価されているかが、この話によっても、窺われるであろう。
 「渾身の力をもって事業に当たれ資本は第二の問題であるが、それも自分自身の力で作ってゆかねばならない。」この信条はまさに鉄言であろう。  自己宣伝の嫌いな黒澤氏は、タイプーライター業者として、会費を払うだけのローマ字会員でありカナ文字会員であるが、その立場を利用して、 自分の商売の為にしたことは一度もないという。
 やっと話しが終って、コンサイス(板についた英語を話す氏は適当な日本語をみつけるのに字引をみておられた)を手放した黒澤氏の背ろの壁には、 従業員で戦死した人達の写真が八枚もかかっていた。家族主義の現われなのであろう。 ←もどる
週間朝日 昭和25年5月6日 17
  第三位 黒沢貞次郎氏  東京蒲田の黒沢商店主。テレタイプ(自動印刷電信機)の製法と、米国のスミス・コロナ会社の代理店として英文タイプライターの販売にあたり、 二十三年所得一千三百万円、二十四年度二千九百万円(全国第六位)と、事業は好調、税金の滞納など全くなく、国税庁のおホメものになっている。
 日本橋に生れ、小学を卒えると、単身渡米、二十六歳までニューヨークのタイプライター工場に働き、明治三四年帰国。十台のタイプを、はじめて日本に持ち帰ったが、 売れずに困ったという。
 その後、数寄屋橋のそばに間ロー間半の店を開き、片仮名タイプを創案、以来五十年、タイプライターと生命を共にして来た。大正のはじめ、蒲田に移り、 従業員は常に一貫して百三十八程度、平均勤続年数二十五年、新規採用はみな従業員の家族から採ることにし、工場の周囲には社宅が約百戸あり、 戦前は工場の敷地内に幼稚園、小学校も経営、「黒沢村」を形づくっていた。
  貞次郎氏(75)はロータリー・クラブの熱心な会員。自動車も持たず、毎日、八時前には電車で工場に現われる。米国のスタンウエイ・ピアノ会社や、 独逸のカール・ツァイス工場のような工場を作るのが念願で停年制はなく、七、八十歳の人まで働いている。
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