タイプライターの沿革
昭和二年二月開催(和文印刷電信機施設技術官講習会講習資料の一部)
昭和二年十月開催(印刷電信機運用講習資料の一部)
黒澤貞次郎 著
一八八五年前後における珍しきタイプライター
 
THE WORLD ウォールド      THE SUN, サン
 THE CENTURY (New Hall) センチュリー
 
THE CRANDALL クランダル       THE CROWN クラウン
(黒澤工場における和文印刷電信機施設技術官講習会において)                 黒澤貞次郎氏講演
(一)
 機械力で文字を書こうという考が著しく起って来たのは十八世紀の中頃すなわち一七五〇年前後でこれは二、三の人の考案というよりも、 むしろ十四世紀より十六世紀に渉りて「ヨーロッパ」全土に興った、学芸の復興の当然の帰結であるといわねばなりません。
 で、この考案の動機は盲人(めくら)に目明(めあき)の読める文字を書かせたいという奇特の心から出発した事は容易に想像し得るのであります。 例えばその頃、否実際最近までは、書信は凡て自筆で認むる事を礼儀正しいことと致した。 実際今日でも式礼の書信は必ず墨痕鮮かに認むるので想像できます。
  サルバ一式印字機 Thurber’s Typewriter(1843)
 さて、今日の講演はタイプライターがその発明の完成以来いかに大なる貢献を、商業、産業、工芸の発達に与えたか、 又は知識、文化の普及に及ぼしたかを多く語るよりも諸君と共に私共の大なる興味を持つ電信技術、業務上にタイプライターが極めて密接に、 かつ歩調を共にして発達して来たかを申上たいと思います。
 ちょうど電気を通信に利用しようという始の考案が、十八世紀の中頃に先覚者によって発表せられたとの事ですが、 その最初の具体化はそれより九十年の後・・・十九世紀の始めであったと同様にタイプライターの考案も、 その最初英国の某によって公にせられてた以来一〇〇年余も経過した十九世紀の中頃…一八五○年……一八六〇年、米国では南北戦争の前後、 我国の年暦ではベルリ提督が開国を迫った嘉永年間に、アメリカに於てその具体化に向っての曙光が現われたのであります。
 その頃です、「文字を書く機械」の考案が大西洋を隔て英仏米の三国で盛んに宣伝せられた事は一八六七年七月発行の科学雑誌 “Scientific American ” に記述せられてあります。時はたしかに熟しました。で、 その具体化する為には勇気ある実行家を待つばかりでありました。
(二)
 ここに北米ウィスコンシン、ミルウォキーにショール(Mr、Shoels,Milwaukee,Wis.、U.S.A.)なる人がありまして、 タイプライターの発明に熱中しておった。ちょうど同市の電信通信手のウエラ-(Mr.Weller)なる人が協力して、 電信機のキーを利用してW一字だけ書ける機械を工夫しました, これは思付の考案と早速グリデン(Glidden)ソール(Soule)両氏も加わって工夫を凝らしてアルフアベット全部書ける機械が出来上がり、 それで書いた見本をデンスモアー(Densmore)なる実業家が見て出資後援して完成させる事にした。出来上った機械は何と名を付けよう? 「書く機械」(Writing Machine)?否、ソウでない。印刷機( Printing Machine)?なお更、ソウでない。あれかこれかと詮議の結果ようやく (Typewriter)版型筆記者・・タイプライターときまりこの平凡な名がついに今日一般に用いらるるに至ったのであります。 あわしこの最初のタイプライターも結局素人の素人細工-幼稚な木製のタイプライターで遂に実用に適しないで失敗に終りました。
  ショール氏の一字印字機 (Mr.Shole’s, lettle Printer 1863)
 その頃米国の工業状態は皆小規模でありましたが、南北戦争に刺激せられて小銃砲の製造はやや見るぺきものがありました中に優秀な小銃としては 「レミントンガン」(Remington Gun)、「エル、シー、スミスガン」(L.C.Smith Gun)等ありました。
 ついに失敗に終った摸型の木製タイプライターは完成させるベく「レミントン」銃砲工場に持込まれ同工場で技術者が摸型を調べて、 専売権を譲り受ける事、完成したる暁は「レミントン」と命名する事等の条件で研究を引受け技術者の手で完成させる事に取きめました。
(三)
 で、レミントン工場に持込まれた最初のタイプライターは下図の左側に示してあります。
またその機械と印字する原理とは下図の右側にあります。これは一八六八年アメリカの専売特許権を得たものであります。

Sholles’Typewriter brought to the Remington Works 1876

U.S.patent Office Model of the machine Patented Jun 23, 1868, by Sholes, Glidden and Shole.

 この幼稚なるタイプライターが着々と改良工夫せられて八年後に始めて商品としての最初の機械が出上がりました。 機械は44のキーより成立つものでAよりZまでの頭字と数字、句点だけを印字したもので書信を認めるという目的よりも、 電信用又は法廷に於ける訴訟上の陳術等を迅速に印刷する目的であったのであります。

商品としての最初のタイプライター 一八七四年 米国ニューヨルク州イリオン レミントン銃砲工場製造
The First Commercial Typewriter (1874) Built by the Remington Works, Ilion, N.Y.
(四)
 さて、話は後に戻りますが、創作時代のタイプライターは円形の平板を用いて、 その一面に周辺を沿ってアルフアベットの版面を配置して下部たらしめ、 他の一面に同文字の符合を配列して上部たらしめ、その円形平板の中心に穴を穿ち軸を貫通して平板を回転せしむべく工夫し、 依て以て所要の文字を印刷点に廻し来りて語句を綴ったのです。
 しかしてこの方法では機械本来の特徴たるべき高速度印字を達成することが出来ません為、ついに成功を遂げなかったのであります。
エデー式印字機 一八五〇年  Eddy's Typewriter,1850.
 で、この様な失敗を繰返しつヽ多くの歳月は流れ往ったのであります、ようやくにしてキーの構造はピヤノのそれを応用し、 一字づヽ送る機構は時計のエスケーグメントを応用する事になってから始めて実用に適する現代のタイプライターの祖先が出来たのであります。 故に一言にして尽せばタイプライターはピヤノと時計と印刷機との三機合体機ということが出来ます。
 で、ありますが創作時代に応用せられた平板式はその製作の簡易なる点が捨て難いので、 この平面式も逐年相当の発達をしてクランダル式ブリケンスデルフアー式、ハモンド式等のタイプホイール(Type-wheel)式、 あるいはタイプシヤットル (Type-shuttle)式のものに進化発達をしました。最初の印刷電信機ストック・チッカー(Stock-Ticker) の発明もタイプ車式のタイプライターに少なからず負う所がありました。
 先に御話した最初の商品としてのタイプライター「レミントン」号の構造の概略を申し上げたい。この「レミントン」号のキーボードは、 四段式44キーより成り、即ち今日の標準型の始祖で、タイプは細き鉄捧の先端にはめ込まれ器械の頭部に継手(タイプバー ジョイント) を上にしタイプを下に殆んど垂直に一周して配列せられ籠状を成しており、プラテンロールは木製で籠の頭部を水平に横断して置かれました。 タイプバー毎に一個のタイプが付いてあって26のアルファベットの頭字と数字、句点を印字する仕組でありました。で、 キーを押すとタイプは
(五)
フランシス印字機 一八五七年  Francis Printing Machine,1857.
 約90度昇鰧して水平に置かれたプラテンに捲かれた紙面を下から打って印字しました。ですから印字の際その印象は見えない事になります。 もし何を書いたか見ようとすならばプラテンを前方がら起して(後方は蝶番で固着してありました)見たのです。で、この式の構造を後ちに Blind Typewriter(盲タイプライター)と呼ぶようになりました。――即今の書きつつ見えるvisible Typawriter(目明タイプライター) の反語として。
 さて、とにかく幼稚ながらも印字機の基礎は出来ました。時は十九世紀の終末期、日々膨脹してゆく国際的商工業は通信、 交通の業務を益々繁劇にし、将来の通信は機械力に依らねばならぬ、しかしてその機械はタイプライターである。 しかしてもしタイプライターが頭文字(キャピタル)ばかりでなく
(六)
小文字(スモール・レター)も印字し得るならば、しかり、 その様な機械こそ真に実用に適し立派な書信用になると考えられたのであります。

初期の大小両文字印字機 カリグラフ 一八八四年   First Double-Case Typewriter The Caligraph 1884.

左図は実物写真版、右図は版描  
 そもそも頭文字は角ばったゴツゴツした読み悪い字型であります。ばかりでなく、 タイプした時に僅かな字並びの狂いも非常に目につく欠点があります。 しかるに小文字は曲線の美に富み読み易く、また少々の字並びの狂いも左程目につかない特性を有しております。 キーさえ追加増設するならば大小両文字いずれも書き得る訳である。出来れば一般書信用にも販路があるという訳で、 六段キーボードのカリグラフ(Caligraph)は生れました。
 カリグラフと言う名称についておもしろい話があります。それはいやしくも文筆の士が主として用いる機械をタイプライター「版型筆記者」 というような安っぽい名称では面白くない、彼等の趣味に強く訴えるには「英語の漢語」の名を付けるに限るとこの機械をカリグラフ、 ・・・ギリシヤ語源のKalos=美しい、graph=筆記者、とヒネくれた名を付けました。 実際その当時は大小双方の文字をタイプした美しい記者(ライター)でありましたが、 しかし結局機械の名としてはもっと民衆的なタイプライターが勝利を得ましてカリグラフの名は何時とはなく忘れられたのであります。
  話は代りて当時優秀なる銃砲の発明者として、かつ製造家として Lyman C. Smith 氏がありました事は先に申上げました。 同氏は最初からタイプライターは大小双方の文字が書けなければ実際の役に立たぬとの意見を持って、この方面に着々と研究を続けておりましたが L.C.Smith 氏は、W.L.Smith、H.W.Smithの兄弟三人協力して、ついに全部鋼鉄製の堅牢な、型状も小じんまりした六段式キーボードの スミス第一タイプライター(Smith-Premier Typewriter)を創作しました。

スミス第一タイプライター -八八五年
Smith-Premier Typewritcr 1885

スミス第一タイプライター、環状に設置せるタイプバーと長き軸承
(俯瞰図)
(七)
 このスミスプレミヤは、その頃のレミントンやカリグラフがキーを始め紙送りの仕組などに木製の部分が少なからずあったにもかヽわらず、 全部鋼製でしかも始めて運架軌道(キャリエージ・レール)に四個の鋼球を用いてボ-ルベヤーリングをタイプライターに応用した最初の機械でありました。 で、その鮮明なる印刷と、円錐型の二個の軸承による軽快なキーの動作が大評判になりまして、当時の最優秀機として承認されました。
 大小文字、数字、記号76キーより成る六段キーボードは実に当時の流行児でキーボードの色彩もすこぶる振るったもので小文字は白ボタンに黒文字、 頭文字数字記号は黒ボタンに白文字で少なからず手間のかヽった工夫で、アメリカでもまだラッシュアワアなどという混み合う事はなかった、 のんびりした時代でありました。・・・日本の年暦では明治三十年前後、日清戦役の済んだ頃になります。
 その頃市場に現われた「ヨスト」や「バ-ロック」など今日では忘れられましたが、その頃は盛んなもので両機とも六段式を採用しました。 勿論こうなっては頭文字一点張のレミントンは一大打撃を受けた訳でありますが、「必要は発明の母」でここにレミントンは大新案を出しました。それは、 今日の凡てのタイプライターが応用しているシフト・キーであります。すなわち一個のタイプバーに大小の文字各一個すなわちA及aを付着して、 プラテンが通常位置にありてキーを打てばaを印字し、シフト・キーすなわち上段キーを押えてプラテンが少しく移動したる位置にて同キーを打てば、 頭字Aが印字せらるヽ仕組みであります。で、レミントンはこの新工夫を旗印として当時流行の六段キーボード機と戦いました。 しかして競争は益々白熱化したのでありますが、あたかもその頃からタッチシステム・タイプライチングすなわち両手の十指をことごとく用い、 触覚でタイプする方式・・・が採用せられました結果と相まってシフト式四段キーボード機は優勝者となり、 今日では六段式キーボード機は骨董品となり終りました。

ヨスト タイプライター
Yost Typewriter
バーロックタイプライター BarlockTypewriter 
(八)

第一図 カリグラフ タイプライター

第二図 バーロック タイプライター
 時はまさに二〇世紀を迎えんとしたる一九〇〇年前後タイプライターは画時代的機運に遭遇しました。・・・一方においてはその商業戦の影響より、 他方においてはタイプライターはvisiblewritingならざるべからず、すなわちタイプしつヽ見えざるべからずとの技術的方面の覚醒より。
ここで一寸タイプライターが進化して来た三楷梯を代表的機構の断面図をもって申上げておきます。
 第一図は盲型 Blind Model でタイプはプラテンの底を打つべく仕組まれました。
 第二図は半ビジブル型 Semi-visible Model でタイプはプラテンの頂を打ったのであります。
 第三図は全ピジブル型すなわち Full visible Model の最新式の機構でタイプはプラテンの前側面を打つ仕組であります。
 図中Pはプラテン(円筒)、Tはタイプ(活字)、Cはカッシヨン(置床)であります
第三図 エル、シー、スミス・タイプライター
(九)
 さて過去二十五年間創作時代よりこの時まで発達したるタイプライターはことごとく Blind Machineでありました・・・ タイプしたものが見えない盲機械でありました。これを代表的に言うならば「レミントン」も「カリグラフ」も「スミス」も、はた又「ヨスト」、 「センチュリー」も皆しかりでありました。しかして盲機械とは言え年々精練せられたるタイプライターは使用せらるヽ範囲ようやく一般的になり、 その需要漸増の傾向は各機互いに競争の激度を加え、その緩和救済のため前述の代表的の五製造会社のトラスト(合同経営)は提案され、 やがてその合同は実現することヽなった時 L.C.Smith(エル、シー、スミス)氏は「善良なる競争は進歩発達の一要件なり」 と主張してトラスト組織に反対しその結果自己が築き上げた「スミスプレミヤ」会社より分離して「スミス兄弟会社」を創立しました。 「まさに来らんとするビジブル式を完成させなければタイプライター発明者はその天職を尽したと言い得ないjとは彼の信ずる所でありました。
 この時すでに半ビジブル型は市場に現れました。前頁に掲げた「バーロック」はその代表的のものでこの型式を後に Semi-visible Type (半ピジブル型)と申しました。
 一方において不完全ながらも現代の Fu11 visible Front-stroke (ピジブル前方打字型)の祖先「Pittsburg」(ピッツボルク) タイプライターは現れました。また続いて初代「Underwood」(アンダウード)もこの時代に現れました。 で、盲タイプライターのトラスト組合に対抗して全visible又は半visibleの続いて現れたのがこの時代における傾向でありました。 が、新規の型式に免かれることの出来ぬ欠陥が何れのビジブル型にもありました。ですから相当に精練せられた盲タイプライターは、 相変らず実需要を充しておりました。
二十世紀の初頭における精練せられたる盲タイプライターの両大関

「レミントン」Remington

「スミスプレミヤ」Smith-Premier
(十)
「遅くとも確実」はエル、シー、スミス氏の遣り方で同氏は十分に改良した第一号型を一九○三年に市場に送り出しました。このエル、シー、 スミス一号型は少なからず技術上方面の注意を引きました。すなわち彼の年来の所信を「全ビジブル型」において実現せしめたからであります。 彼の所信とは、曰く文字を筆記する場合において机上の紙片は安定し筆はその上を走るのである。もし反対に筆が安定し紙が走るならばその結果は如何?   同じ道理はタイプライターにも適用せらるべきでタイプライターのタイプは筆である、プラテンはテーブル(筆記台)に比すべきものである故にシフト (上段)キーを押す場合にプラテンが動揺せずしてタイプそれ白身が昇降するならば紙幅の狭き場合も叉広き場合も均一の労力でタイプ出来るからであると。 果して氏の発明になった「タイプバスケットシフト」は視観をさえぎるものなき構造のビジブル式と相まってその当時より退却を余儀なくせしめつヽあった トラスト組の盲タイプライターを一九○八年には全く市場より駆逐してしまいました。

ハモンド Hammond

ウェリントン Wellington
で「レミントン」がビジブル型に代りて市場に現れたのは一九○八年頃と記憶しております。  左側に盲型よりビジブル型に進化した中間において考案された半ビジブル型数種掲げて御覧にいれます。 これ等はタイプライター発達史の第二期に属する訳になります。

フランクリン Franklin

ワグナー Wagner
(十一)
タイプライターの歴史を一言にして申せば、過去半世紀間に発明せられた機械の数実に数十種中、 その最初の創作時代より今日尚残りて第一位を占めつつあるもの「レミントン」と「スミス」あるのみで、 その他は中期より晩期にかけての作品であります。もって如何に適者生存の理が我等の機械の上に働いているかが知り得るのであります。 ここに市場にある著名なる最近型を数種陳列して諸君の参考と御研究の資料に供します。
(カネギーエ科大学機械工学部試駿表參照)

レミントン Remington

アンダウード Underwood
工ル、シー、スミス L.C.Smith

ローヤル Royal

ウードストック  Woodstock
(十二)
一般書信用としての代表的タイプライターは前頁に掲載致しましたが、タイプライターがあらゆる業務上の記録に応用せらるる現在では、 各機ともそれぞれ幅広の用紙を挿人し是に印字し得る長きプラテンを具備するものを製作供給しております。で、幅広の標準型は書信型十吋機は別として、 計算書用として十二吋機と十四吋機があります。又統計表用として十八吋機、二十吋幾、二十六吋機等があります。
エル、シー、スミス 二十吋幾
同上背面図
エル、シー、スミス ニ十六吋機
(十三)
 さて、ここまでは主としてタイプライター系統の本流について申上げましたが、その直系の二大支流について簡単に申上げたい。 即ち一つはBook Typewriter(簿冊タイプライタ一)で、二は携帯用(Portable)又は個人用タイプライターであります。  ブック タイプライターは一八九八年エリオット氏(Mr.Crawford E11iott)により発明されまして、始めは「エリオット エント ハッチ」 (E11iott&Hatch)と名づけて市場に出しましたが、後にエリオット フイシヤー(E11iott-Fisher)と呼ぶに至りました。
この機械は装釘帳簿にタイプ出来る特徴がありまして「平面プラテン」その優れた理想として存在して居ります。 一般の書信用タイプライターが凡て円筒式プラテンに紙を捲き込むに反し、 ブックマシンは平面プラテン上に用紙を置けば機械はその上を走る仕組でありますから、 木の板でも厚きカードでも、はたまた何へでも書ける訳合で簿記用として装釘帳簿の使用衰へ、ルーズリーフ式帳簿の使用盛んになりし現今では、 この機械に加算装置を取付けて計算書用又は会計簿記用としての方面の需要を独占しております。

Elliott&Hatch 
最初のプックタイプライター「エリオット、ハツチ」1898

Elliott&Fisher現在のプックタイプライター 
装置完備せる「エリオット フィシャー」
携帯用(Portable)タイプライター、一層適切に言えばタイプバー式構造の「ポータブル」は一九〇五年の創作に属し、 その発明者フランク ローズ(Mr.Frank Rose)氏がニユーヨルク市内で小規模で旅行者用として製造を開始した当時は、 今日のごとき大規模の産業に到達しようとは夢想だもしなかったのであります。
(十四)
最初の機械はスタンダードポータブル(Standard Portable)と命名して市場に出しましたが、 一九〇九年にこれを「コロナ」(Corona)(ラテン語で玉冠の意義)と改名しました。ポータブル タイプライターと言えば即ち「コロナ」を連想し、 「コロナ」と言えばポータブルを意味するほどの斯界の開拓者であり又斯界の権威でありますから主として「コロナ」の発展した経路を述べます。

三段コロナ(Corona Three)

折たたみたるコロナ
 三段キーボード、アルミニューム外枠、 折たたみ式、携帯用ケース入、軽量小型の「コロナ」は大陸横断の汽車中や大西洋上の汽船中で唯一の文化的 通信用機でありました。しかして「コロナ」が脆弱(きゃしゃ)な様で実際に生命知らずの奉仕ぶりはその愛用者をことごとくその謳歌者たらしめ、 また最有力の販路宣伝者たらしめましたから「コロナ」の需要は異常の速度をもって増加しました。 誇大の広告や自家宣伝の流行する現代に新聞雑誌にろくろく広告もせずに僅かの年月に世界の隅々まで行き渡り、 現今では七十万台近くも使用せられているのはこの種の機械に稀にみる現象であります。

 コロナとその携帯用ケース

 四段コロナ(Corona Four)
 「旅行からホームヘ」は自然の帰結で「コロナ」は遂に家庭をも征服して子弟教育用の必需品となりました時、 その有効の範囲を一層広げると同時に、標準タイプライターと一致すべく先年四段キーボードを採用しました。四段コロナは旅行にも家庭にも、 学校にもはたまた事務用にも適しますので、携帯用と言うより個入用(PersonalTypewriter)と言う一層広い名を用いる様になりました。 「コロナ」の四段式採用は他のポータブルをして同式に追随するを余儀なくせしめましてポータブルにおいてのみ残存していた三段式キーボードは、 自然に陶汰され漸を追って四段式に改良せられつつある現状であります。
(十五)
一八五〇年頃の植字工と活版ケース
欧文タイブライターキーボードの文字配列の変遷は又興味ある本沿革の一部を成すと存じますから簡単に申述ます。 最初の商品としてのタイプライターに於けるキーボードを如何に配列すべきかは相当の考慮を要したのであります。 思い当たったのはその頃活版印刷所で使用していた植字工の活版格納箱の活字配置方でありました。 で、これを適宣按配するに限ると言うので現今の標準キーボードのQWERTYUIOPという様な配列が出来たのであります。で、 その頃の欧文活版ケースは下図の様な配置でこれをLow-case=小文字箱と呼びました。
このケースを基礎にして適宜按配されて出来たのが最初のキーボードであり又現在の標準キーボードであります。 双方がよく似ている文字の配置と四段十枠の割付に御留意下さい。 さきに述べました通り(第五頁参照)最初のタイプライターは一キー一文字で頭文字ばかりをタイプしたのでありますから、このキーボードには数字、 句点等の上に他の記号の表示がありません。 (勿論その後シフトキーの設置により一キ式文字に進歩した後もアルファベットは頭字だけで表わす習慣になっております。)

最初のキーボード、又現今の標準四段キーボード
(十六)
ところが頭字だけしかタイプ出来ないのでは一般書信に不便なので標準六段キーボードが出来ました。 この六段キーボードで大小文字及び記号が始めてタイプされたのであります。

標準六段キーボ-ド(カリグラフタイプライター)Six Rank Standard Keyboard “Caligraph ”
そもそもQWERTYUIOPの配列は標準キーボード(Standard Keyboard)又は普遍キーボード(Universal Keyboard) などといういかめしい名称の持主でありますが、実は偶然に植字工のケースから案出されたので、 実験上から来たという外には余り理論的根拠がないのであります。一八九五年頃ハモンドタイプライターの発明者は、 米国の議会に於ける速記録その他文書より割り出して下図の理想キーボ-ドを案出し数年間その長所を熱心宣伝しましたが、 ついに使い馴れた標準キーボードに降参して後にはハモンドもまた標準キーボードを採用しました。

アイデアルキーボ-ド(ハモンドタイプライターの採用せしもの)ldeal Keyboard “ Hammond ”
ハモンドがしきりにアイデアル式を宣伝している頃ブリケンスデルフアル(Blickensderfer)のタイプホィール式機械は市場に出ました。 是れは主として新聞や雑誌等の使用文字、数字を
(十七)
研究してサイエンチフイック キーボードを考案して盛んに宣伝競争をやりましたが、 これまた同じ失敗の運命に逢着し遂に自滅しました。

サイエンチフイック キーボ-ド(プリッケンステルフアール タイプライター)  Scientitic Keyboard¨Brickensderfer”
要するにキーボードの文字配列は相当に巧みに配列してある以上馴れたものが一番良いので、文字使用の多寡は時代と時期、 事情によって異なるのでありますから、如斯事に一定の理論を応用することは出来ぬのでありますのは丁度音楽の作曲家が、彼が感激するままに曲を作り、 決して楽器の音階の位置に考慮を払わざるごとく活社会はタイプライターのキーボードに無頓着に実用語をドシドシ変えて進むのであります。 で、現今普遍的に採用せられている三段式及び四段式の標準キーボードをここに掲げてこの章を結びます。

標準三殴キーボード Standard Three-Bank Keyboard

標準四段キーボ-ドStandard Four-Bank Keyboard
(十八)
欧文タイプライターに使用せらるる書体は約三十種ありますが最も一般に使用せらるるもの数種をここに掲出します。
(一九)
次にタイプそのものの形状が機構の発達と共に進化して来た順序を概略申述べます。 第一図は最初の軟鋼製の単独タイプ即ち一キー一文字機タイプであります。 「初代レミントン」「カリグラフ」「スミスプレミヤ」「ヨスト」「バーロック」等皆単独タイプを採用しました。 第二図はシフトキーを設置した一キーニ文字の改良型に採用した軟鋼製タイプであリます。 第三図はタイプホィール式マシンに採用したタイプの形状で材質は硬質ゴムであります。
第一図  第二図 第三図
第四図は「ハモンド」の採用したタイプシャトルで、その形状の弓形を成せる点は現今一般に採用せられて在るタイプバーセグメントの型式 を案出するに知らす識らす大なる暗示を与えたのであります。 第五図は三段式機の半ビジブル型及全ビジブル型に採用せられた現代型のタイプであります。 第六図は四段式機が一般に採用して居る最近型のタイプであります。材質は軟鋼を圧搾して字型をしぼり出したもので、 表面に焼入れニッケルの渡金を施し半田蝋にてタイプバーに接合するのであります。
第四図  第五図 第六図
(一九ノ一)
 タイプライターのインキング機構=即ちタイプ面に適度のインキを塗付し依て以て紙面に印刷する工夫は、 その創作以来現今の1/2吋巾のリボンに統一せらるるまでその間多くの変化と様ざまなる工夫が考案せられ、応用せられたのであります。  創作時代はゴム版から考を採って大体において毛製のフェルトパッドにインキを浸したものを用いました。 現今わが国にて用いられてる邦文タイプライターは即ちバッド式インキングを採用しているのであります。 で、タイプライターが幼稚の域を脱し必要なる事務用機械として認めらるるに到った一九〇〇年頃、 市場にあった機械を見ますならばリボン式とパッド式と約半々であったのであります。 これを具体的に申しますなれば「ブリケンスデルファー」は円筒形パッドを用い、「ヨスト」は環状型パッド、 「ウィリアム」はセグメント形パッドを用いました。 パッド式にこのように様々の形状があった如くリボン式機械にも「レミントン」のリボンは幅1と3/8吋、「スミス」は幅1と1/2吋、「エリオット」は1吋、 「ウェリントン」は7/8吋、「バーロック」や「アンダウッド」は7/16吋、「フランクリン」は5/16吋といった具合に様々の幅のリボンがありましたが 漸を追ってタイプライター其ものの基本型がセグメント式タイプバー配列、前方打字、ヴィジブル型となりまして、 リボンの幅は1/2吋長さ十二ヤードに統一せられたのであります。しかして現今リボンの製造者が一般に供給しているリボンの種類にレコード用、 コッビー用、特殊用の三種あります。 しかして色に黒、紫、藍、赤、緑、茶、黄の七色あります。何れも単色と二色組合せとの二通りあります。
  
「ヨスト」タイプライターインキパッド   ウィリアムタイプライターインキパッド  ブリケンスデルファータイプライターインキパッド
A機ノリボン送リ機構 / B機ノリボン送リ機構

「キャリエジスプリング」ノカガ「キャリエジ」ノ移動ニ従イ「リボン」ヲ巻送ル  /  「タイプバー」ノ根本ノ一端ノ圧力ニヨリテ「リボン送リ」ノ機構ヲ働カス
(一九ノ二)
お話しは少しく後に戻りますが、リボン式と言いはたまたパッド式と言い、何れもタイプライター発明者の苦心を物語るものでありますから、 この点に就て簡単に申上ます。パッド式は直接印刷法であって、タイフ'面にインキを塗付すれば足りるのでありますから、 その関係部分も極めて単純で、又タイプの字型そのままを紙面に現象させるので字型の描書も容易で、機械の生産費も低廉で、 その運用に於てカーボン複写力大なる等の長所を有していたのにも拘らず、ついに陶汰せられた所以は一、インキの濃淡宜しきを得るに困難なること。 二、タイプ表面が絶えずパッドに浸り居る為鋼質のタイプを腐蝕させること。三、前方打字ビジブル式にその応用の困難なることでありました。  リボン式はリボンを仲介して印刷することになりますから間接印刷法と言い得ます。既に間接印刷法でありますから、 タイプの字型がリボンを介して紙面に現象する時に尚且つその格好のよいように、その図案に多大の考慮が払われるのであります。 又リボン運動の機構の良否は少なからす機械運用上に影響を及ぼす訳合になります。即ち新規リボンの取り換えが容易に出来るのは勿論のこと、 リボン巻送りの装置、方向転換の瞬間的なることがすべて確実で自働的で、しかして是等を働かさせる力が軽快なることを要求するキータッチに 少しも関係を及ぼさざること等が大切な条件で、各機械のこれ等の部分を研究することは興味ありかつ重要消耗品たるリボン費を軽減する上に、 有益なる結果を得られるのであります。
(二O)
これから和文タイプライターに就て申述べます。  大正六年六月二十一日は電信界にとり永く記念すべき日と存じます。この日、大阪中央電信局に於て和文タイフプライターを二台、 現業受信に始めて用いたのであります。当時の局長は秋山宇喜太氏で、通信課長は現在の局長、廣島庄太郎氏でありました。 和文タイプライターの施設に関する大正五年度大阪中央電信局電信事業記録によりますれば:  「機械の作製に就ては、東京黒澤貞次郎をして之を考究せしめたるに、別紙同人よりの仕様書の通りにして、 即ち現在当局にて貼付欧文電報翻写用に供しつつあるL.C.Smith式タイプライターを基礎として、之を和文電報に適する様改造すべきものにして、 之がキーボードの文字配列は当局に於て多数電報に就き各文字毎に使用の多寡及運用上の便否を慎重に研究し之を定めたるものなり。」 云々とあります。  同局に於て和文タイプライターを現業受信に使用すべく立案せられたのは前年の大正五年七月であります。その前年の大正四年七月に、 欧州の一角で勃発した世界大戦は満一年を経て益々激甚の度を加えつつ我海運界は勿論産業界も経済界も共に一大発展の機運に際会した多忙多事の時期 でありましたが、大正五年の春同局から和文タイプライター作製の件に付き出頭を求むるはがきを自分が受取った時早速大阪へ出張しました。 主として廣島通信課長の指導を受けまして翌大正六年四月上納しましたのが先に申しました二台の電信用和文タイプライターでありました。 で、キーボードの配列は同局で1838通の電報此字数98450字を研究せられて定められたのが下図のキーボードで、 その後漢字を全廃しましたのが現今のキーボードであります。
(二一)
そもそも和文即ちかなもじタイプライターは私と切っても断れぬ縁のある事業で、 私が米国在留中日清戦役起り清国に対する敵慨心は転じてその漢字にまで及ぼし(少し見当違いですが感じ易い少壮時代ですからお許容を願います。) 又その当時タイプライターが創作時代より実用時代にようやく入った時で、又米国の子供達が文字の簡易の為、 いかにもたやすく、小学教育を受けつつあるを目撃して、 我国でも漢字を廃しかなもじを採用したらばと強く感じたのがタイプライター業に従事する動機でありました。   で、1896年ニューヨルク在留中に「エリオット、ハッチ」の工場で段々と研究をつづけ、1898 年の末には機械らしきものが出来上りました。 電信用という考えがなかったのでその書体は「ひらかな」でありました。明治三十二年九月三日、 時事新報がその紙上でかなもじタイプライターの発明を紹介しましたのを縮小複写して次頁に掲げます。 当時東京盲唖学校長小西信八氏はわざわざ書信を寄せられて奨励して下さいました。又同氏は故男爵前島密氏にもこの発明を紹介して下さいました。  逓信省の方に始めて和文タイプライターをお見せしたのは明治三十二年(1899)七月ニューヨルク市を訪れた逓信技師梶浦重蔵氏でありました。 続いて翌三十三年七月逓信技師大岩弘平氏にもお見せした、その時同氏は、白重して大成せられる様、大いに奨励してくれました。 またカタカナ機を作る様、注意をしてくれました。それから六ケ月の後カタカナ機が出末ました。 当時ニューヨルクを訪れた逓信省参事官、現錦鶏間祗候松永武吉氏にも御見せしました。
 
著者の作りし最初のひらかなタイプライター、1898(エリオット改造型)
  ひらかなタイブライターの印字 著者の日記帳実写による
(二二)
(二三)
最初のカタカナ機は明治三十四年(1901)二月に作り上ました。して、同年の六月に帰朝しまして我国に於ける最初のタイプライター業を開きましたのが此工場の始ま りであります。その当時逓信省、電気試験所、東京盲唖学校、東京郵便電信局電信課等に合計十台ほど納入しました。 =(正確なことは記録が大震災で焼失しましたので判明しません。)=又、翌年大阪郵便電信局電信課にも二台ほど納めました。  帰朝後間もなく大岩弘平氏の御紹介で、東京郵便電信局電信課でタイプライターの説明を致したのが、私が電信業務に接触しました始まりで、 その時の局長は中谷弘吉氏、電信課長は山根常氏で非常にお世話になりました。 その当時同局に御勤務であってタイプライターの実験に関係なされた八木鍾次郎氏(現東京中央電信局長)だけが今日なお電信現業に御在職で、 この工場の作品である和文スミス タイプライターが逐年改良せられて軽快、無音、頑丈の特徴が電信業務の要求に合致して、 今日よくその真価を発揮し得るに到りましたのは、八木局長の二十六年一日の如きお叱言=(まだ一度も褒められません)= に負う所多大なので常に有難く思うている次第であります。
 
一九〇一年著者の作製せる最初のカタカナタイプライター(エリオット改造型)遁信博物館所蔵    /その印字実写
(二四)
さて、明治三十四年に納めました数台の和文タイプライターは、江戸橋本局一汐留局間の受信上に実験せられましたが、 当時の和文機械が幼稚でありましたため、 遂いに不成績に終りました。それから十五年の後大正六年六月に、大阪局で試験的ではありましたが、 現業用にニ台の施設を見るに至りましたことは既に申述べました。 思い出せばかなもじタイプライターの製作に志してから十八年の永き歳月が過ぎたのでありました。 翌年には八木氏が大阪中央電信局長になられまして多数の和文機は年々増設せられました。
 
昭和二年式和文スミスタイプライター /和文スミスタイプライター実写印象見本
(二五)
こヽで特筆致したい事は、大正十三年六月十七日には同局で施設せる和文スミスタイプライターの数は300台に達し、 その繁劇なる直接電報受信は全部タイプ化されまして、現業の激務は緩和せられ受信能率は著しく増進したのであります。 で、今日迄十年間この工場で作り出しました和文スミスタイプライターは2300台余りに達します。 しかしてその大部分は内地及殖民地の電信業務に使用せられておりますが、軍用にもまた文書用にも多少用いられております。  和文タイプライターに就きましてその重要なる特殊の点を申し上ます。欧文機と和文機との基本的相違は勿論字数であります。 欧文はabc 26 (ロシヤは34字)数字10、主要句点6合計42字で、42キー四段キーボードを有する機械は、一般文書作成上印字度数の大部分を占むる小文字、数字、 句点等をことごとく運用簡易なる下段キーに配置し得るのであります。 しかして操作複雑なる上段キー上に配置するのは頭字又は稀に用いる記号であります。故に上段キー打字は、 固有名詞かセンテンスの始り又は稀に用いる特殊記号の場合であります。従って下段キーと上段キーの使用度数比例は100に対する1弱であります。 換言すれば通常欧文書を打字するに下段キー打字数100に対し上段キー打字数は僅かに1であります。しかして又特に御注意を促したいは、 欧文電報の如き頭字のみで打字すれば上段キーは全然不必要なのであります(27頁欧文機参照)。故に欧文機にありては、 上段キー機構の巧拙はさほど考慮に入れる必要がないのであります。しかるに和文機はイロハ48、数字10、重要句点6、 合計64で42の下段キーに割当不能の文字なお22ありますので、これを上段キーに繰り入れて配置します。 是等22の内6個の句点をあまり使用せずと仮定して控除するも、なお16字の上段キーは激しく打字する訳で、その結果、上段キーの使用度数比例は、 下段打字100に対し上段打字38になります。換言すれば和文機は欧文機に比し三十八倍頻繁に上段キーを使用することになります。 加之上段キーは両手とも小指で運用する位置にありますから出来得るだけ軽くかつその機構が簡潔であることを絶対に要求します。  この考慮から最初の和文機は上段キーの動作極めて軽快であったエリオット型を採りました。この機械の上段キー動作は左図において見るごとく、 タイプヘッドが45度回転する事により下段より上段に移動したのであります。 併しながら明治三十四年に東京本局で実験した成績は印字の視観不完全なること、音響の高きこと、 運用の鈍重なること等で不成績に終りましたことは既に申し上げました。

最初の和文機エリオット型の上段キー働作図(実線は下段位置、点線は上段位置を示す)
(二六)
ところで、市場にある通常標準の欧文タイプライターは如上の様に欧文が稀に使用する上段キーの関係もありまして、 ことごとく上段キーの動作は重き運架(キャリエジ)その物が上段位置に昇る仕組なので、音も高くかつ重いのを免れませんが、 我工場で和文機の基本とするエル、シー、スミス式はタイプそれ自身が雑音を発せず、上段位置に力学を応用して軽く下降するのであります。 故に和文機としては64キー六段キーボード、ビジブル式の特殊機械を考案製作せざる限り、我がエル、シー、スミス式が最も適するものと信ずるのであります。 以上は単に上下両段文字の関係に過ぎませんが、我国では欧文機は外国語用でその使用度数少なく、和文機は内国語用で使用度数激甚なる事情もありますので、 タイピストの指の過労を防ぎます上からと、音響の発生を防ぐ上からと、 将又軸承の磨損を防ぎます上からボー・ベヤーリング(鋼球軸承)が全体に渉りて採用してあります。 これ等の諸点が極めて重要事であることは我国に於ける現業員の勤務時間の長いことやタイピストの体質からも考慮して見たいと存じます。 (鋼球軸承記事は附録に譲ります。)  
通常標準欧文タイプライターの上、下段動作 / エル、シー、スミスの上、下段動作
 
上段キーを押したる場合運架が上下する動作を示す。/上段キーを押したる場合タイプが上段位置に下降するを示す。
実線は下段位置、点線は上段位置
次にタイプライターの耐久力に就て一言申述べます。タイプライターの耐久力に就ては未だ権威ある学理的試験成績は発表せられてありません。 一例を挙げますれば我がエル、シー、スミス機のタイプバ-軸承の如きは、 自動機械により100,000,000回打字すると同様の動作を与えましても破損せしむる能ざる成績を得ておるのであります。  一億回打字の実験は次の驚くべき事実を証明するのであります。即ちタイピストが毎一分100打字をして、この能率を8時間継続して、 更に第二のタイピストと交代し一日16時間、間断なく使用すれば一日約100,000を打字することになります。この数を仮に42キーに割当てれば、 一個のキーの被打数は2381回になります。即ち1キーが100,000,000回を打字されるのには実に115年を要するのであります。
(二七)
要するに現今の進歩せる機械工業から観て、その作製に大資本の投じてある事実から観て、しかしてその使用が全世界に普及せられてある現状から観て、 機械を正常に使用し之れを愛用するならば、タイピストの筋肉が鋼鉄でない限りまず機械そのものは不滅と断言してよろしいのであります。
電信用欧文 スミス タイプライター
電信用欧文スミス タイプライター 実写印象見本
頭字のみの単独ケースにして上段キー使用の必要なし
(二八)
タイプライターの歴史を講演し終ります前に、タイプライターの発明とその発達が如何に電報通信の上に現れたかは既に御承知のことと存じます。 即ち印刷電信機ハウス式やストックチッカーの発明を最初と致しまして、遂にモルクラムークラインシュミット式印刷電信機の完成となりました。 モルクラムークラインシュミット会社ではエル、シー、スミスタイプライター会社他に二、三のタイプライター会社より部分品の供給を受けて居りますが、エル、 シー、スミス部分は他に比例して多量でありまして、米国のアッソシェテット・プレッス通信社では数百台のエル、シー、スミス式モルクラムー クラインシュミット機を施設して本支社のニュース通信に使用しております。
 
ハウス式テープ印刷電信機 / 株式相場専用ス卜ック、チッカー印刷電信機

モルクラムークラインシュミット印刷電信機(二重通信用送受信機)
(二九)
 
発明当時のライノタイプ1886年 / 現今の多様式ライノタイプ
タイプライターの発明は少なからずライノタイプ機の発明を助成しました。この機械は植字工の活版植字を全廃して、 自動的に一行の新しき活字製版を迅速に工作する機械でありまして、十九世紀に於ける大発明の一と称せられ近代の製版術に大なる革命を来させました。  又会計計算上に多大の貢献をなしつつあるバーロース計算作表機械、ホレリス会計統計機械等その幾多の機構にタイプライターの長所を採用しております。

ホレリス電気式統計機械 / バーロース計算作表機械
今日は長時間に渉りて各地よりお集りになった技術官諸君にタイプライターの歴史を申し上げ得たのは誠に光栄に存じます。 同時に三十年間の苦心になれる私どもの工場の製品を御紹介する機会を得たことを厚く御礼申し上げます。 何卒来るべき一週間御ゆっくり御研究御見学下さいまして、御帰任の節は局長様、課長様によろしく御伝聲を御頼み申し上ます。(了)
 
タイプライターの沿革(「吾等が村」掲載版)
「吾等が村」1926年4,5月号
ここに載するタイプライターの沿革は去る三月八日逓信省の催された「高等通信機 修繕講習会」に於て主人が話されたもので、 その後東京中央電信局発行の「同心会」に載せられたものを転載しました。
 タイプライターはかくの如く、幾多の失敗と艱難とを経てようやく今日の様に広く用いられる様になったのでありますが、 私が三十五年前にアメリカに行った時は、この機械が発明されてから十五年も過ぎて居りましたが、それでも知らない人が多かった位であります。
明治二十七、八年の日清戦争の頃から一般の公衆も知る様になって来たのであります。その当時の機械は、 書いた字がプラテンを轉到しなければ見えない物でありましたので、これをブラインドマシン(Blind machine)というのであります。 またタイプライターの始めは書く事の出来るのは大文字(Capital letter)の外数字と五・六の符号とに過ぎませんでしたが、 その頃から小文字(Small letter)も書けるようになったのであります。
で、一つのキー(key)に小文字と大文字とを付けてそのまま叩けば小文字が印出され、大文字のキーを押してから叩けば大文字が印出されるので ありましたけれど、プラテンは今の様に上下に動かないで、水平に前後に運動する装置でしたから大文字と小文字とが不揃であるのを免れませんでした。
そこで大小文字を揃へて書く為に、七十四のキーをもっている機械がありました。
しかしてキーが三十七個のものを単式鍵盤の機械(Single key boarad machine)と言い、七十四個のものを二重鍵盤の機械(double key board machine) と云ったのであります。二重キーボードの方が盛に用いられたのは明治三十年の頃でありまして、スミス・プレミア(Smith Premier)、 センチュリー(Century)、ヨスト(Yost)等であります。
タイプ・バー(Type bar)がバスケットの様になっているところから、かゝるタイプライターは(Type Basket Machine)と呼ばれたものであります。
然し二重鍵盤の機械ではいたずらに積が大きいため、取扱に不便であると云う所からまた後戻りして小型な単式でよいのを造ろうと 発明家は頭を用いる様になりました。
この要求に応じて造られましたのはスミスプレミヤの改良型、エル・シー・スミスであります。
これまでタイプライターを出来る丈小型にしようという考案からタイプ・ホィール・マシン(Type-wee1-machine)も出来ました、ハモンド、 ブリケンステルファー等が即ちこの種の型であります。
しかし小型で仕末に便利ではあったが速度が出なかったり隣の字が出たりする事が欠点でした。 当時は単式と二重とが互に長短を異にするので夫々の好みに従って両方共用いられました。 一方タイプの速度は日に日に加はって参りまして、初めの頃は手で書く(Hand Writing)  三倍位が標準でしたが、実際段々用いられると共に熟練して、六倍半から七倍半位まで書ける様になりました。
速度の増進に欠くべからざる要件として、タッチシステム(Touch system)が行なわれる様になったので、 その為にはどうしても単式を用いなけばうまくないと云う事になりました。(続)
「吾等が村」1927年2月号
話は少し戻りますが、それでは書きながら書けたものが見える機械は何時頃発明されたかを申しましょう。
実際タイプライターが広く用いられる様になったのは、書きながら見られる機械が発明されてからの事であります。 それまではタイブライターの用途は極めて極限されたものでありました。 しかしてこの書いたものを直ちに見る事が出来る様な visible Writing System の機械は今より二七、八年前に発明されたものであります。
然し初めのビジブル式器械の中には本当に書きながら見えるのではなくして書く手をおいてのびあがって見ると云う程度のものでありました。 実際に今の機械の様に書きながら見えると云うものは、それより一、二年後れて発明されました。この式を早く採用したのはスミス(Smith)と アンダーウッド(Underwood)であります。この式の機械が発明されてからタイプライターは全く新しい世紀に入ったのであります。 この式の機械の事をフロント、ストローク、マシン(Front stroke Machine)と云います。
 さてこの機械は書きながら見ると云う点でタイプライターの世界に一大革命を起したものでしたが、最初は機構 (Mechanism)の関係上速度が ブラインドマシン(Blind machine)よりも遅かったのであります。その後更に完全なものを造る為に発明家は苦心に苦心を重ねましたが、 実用上の便宜から、今日では原則として、前から叩く機械でしかも書きながら見る機械を造る事を大成したのであります。 今日では五十種程の千態万様のタイプライターがありますけれども、何れも皆この二つの原則をタイプライターの必要なる要件としているのであります。 以上申しました事を簡単に要約して見ますとタイプライターの沿革は次の様になります。
 一番最初のタイプライターはゴム判を押す様なものでした。次に大文字と数字だけ書ける様になりました。その次が大文字と小文字とが合さった タイブバーが出来、その次が書けた字の見える機械であったが、それはそれをのぞいて見るものであり、最後に漸く書きながら見えるものが造られ、 今日に至って完成された様な次第であります。 しかして之が今日の如く完成せられる迄にはタイプライターも他の機械のそれの様に非常な苦心と難難の道程を経、大なる忍耐が必要であったのであります。
 私は明治三十三年にニューヨークで始めて仮名文字のタイプライターを造って当時彼処にお出になって居られた元の東京中央郵便局長さんや 電信技師の方々に見て戴いた事がありますが、一寸文宇だけを更えるにさえなかなか苦心を致しました。
 タイプライターの発明改良にどんなに犠牲と苦心とが費されているかと云う一例を申しますれば、スミス、ブラザーがスミス(Smith)器を造り出すまでは、 十万ドルの財産を全く費い果したという事であります。 その外これに類した苦心談は枚挙に暇がない程あります。然し苦心の積まれて出来上った機械は後になってどうしても広く用いられる様です。 之に反して他の発明を模倣して一朝一タに造り上げた機械は、どうも後になって用いられない様であります。
 それでは何処で一番多くタイブライターが製造され、又何処で最も多く用いられるかと申しますと、それは、第一にアメリカ合衆国であります。 この国で造られるもので現に広く用いられているものは約二十五種位もあります。
次がドイツであります。 ドイツ及ヨーロッパ大陸産は約十三種類程あります。先づ合計して世界中に四十四、五種あると云うことになります。しかしこの内で特に 広く用いられているものはと申しますと五本の指に入る程きりありません。アメリカの機械は特に優秀なのでヨーロッパ大陸でも、 産業国を以て自任している英国でも、アメリカの機械が沢山用いられております。
しかしてアメリカ辺の大工場では、一分間に一台位の割合で完全なタイブライターが出来つつあります。私は以前からタイプライターに関係しておりますが、 日本でもせめて自分の国で使うものだけでも自分の国で造りたいものだと思っております。 やがては国産のタイプライターをお目にかける事も出来るであろうと思います。
終りに我国の電信に関係の深い和文スミスタイブライターでありますが、これは大正六年と思いましたが大阪の局でその時の局長の八木さんや 広島課長さんが御熱心に研究せられて出来上り今日の様に多数採用せらるる様になりました (完)
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