1916- 吾等が村
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 広々とせる田面の内に限りなき太陽の慈光を受けて何の不安もなくその日の労働に従事し、家に帰れば青々として育ちゆくソ菜の勢よき様を楽しみ、 心ゆく許りに大気を呼吸して自然に親しむは「吾らが村」の有様である。 1
 地は近郊の蒲田にあり自然に親しみて、文明に離れず内は労働を愛して人生を楽しみ、田園と都市の恩恵は二つながらを享有する所に「吾らが村」 の理想がある。現実を離れざる「ユートピア」これぞ我らが村の使命である。
( 「吾等が村」誌 発刊の辞 黒澤貞次郎)
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黒澤村 3
 これよリ黒澤氏の案内で、 同工場を一巡した。
 熱心に働く従業員、さすがに東京有数の模範工場と言われるだけあって、その秩序の整然たることは学校かと感ぜらるゝぱかり、その清潔な事、 彩光の完き事、場所を充分にとって危険を防いであること等、工場として批評の余地がない。食堂などもしっかりした土台の上に鉄骨で建てられ、 非常時には一瞬間で立派な工場に変化し得る準備が整っている。
(ROTARY WHEEL)
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The remarkable thing is that these 150 workers and their families numbering half a thousand persons, live on the factory premises in ideal houses erected by Mr.Kurosawa for them. (The Japan Times)     日本語

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1913年
(大正2)
1912年(明治45)銀座黒澤ビルの建設を終えると、将来事務機の国産化に備えて、工場用地の取得準備にかかった。 その地を東京近郊蒲田村、矢口村に選定した。東海道線列車の蒲田停車が実現したからである。
(「くろさわものがたり」黒澤張三)
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1915年
(大正4)
築地明石町の自宅を蒲田村字御園に移設させ活動の根拠地とした。 (「くろさわものがたり」) 7
1917年
(大正6)
工場用地として、蒲田村(大字新宿)、矢口村(大字原志茂田、大字道塚)に2万余坪の買収を完了し、 大正7年2月より工場、社員住宅の建設にかかった。(くろさわものがたり) 8
 正門を入ると右手が従業員家族に割当てられた農園で、五六千坪の畑一面にねぎやほうれん草が青々と生長している。道の左手が工場である。 なおこの三万坪の敷地の境界には一面に樹が植え込まれ,工場内の空地にも又桜樹が植え込んである、 春にはさぞかし好い花見が出来そうで工場地域は一面の公園かと思わるるほどいかにものどかな景色である。 (ROTARY WHEEL) 9
桜並木 10
 樹木も相当にありますので、 あるいは儲けて作ったのだろう等と思われるかも知れませんが、この樹木は一部分は苗木からであるが他の大部分は種子からの芽生えであって、 これ又時の恵みと人の丹誠の所産に外ありません。
(「黒澤貞次郎氏講演概要」)
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 私の蒲田工場で職工になるべく慰安的な生活をさせる家屋を提供したり、 花園や野菜畑を与え幼稚園や小学校の設備をしてそこで職工の子弟を教育させていると云うことは、 それは私自身としては別に職業奉仕とは考えず、また西洋の真似をしたのでもありません、唯私の人生観より発足した僅かな現実に過ぎず、 多年私の心裏に往来 しつつあった理想のほとばしりに過ぎぬ・・・
(「講演概要」)
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 農園 13

 some years ago he opened his lot to his employees to be used by them to cultivate vegetables. The workmen have each been allotted a certain space of land, and each employee today has a garden of his own of which he is justly proud. The vegetables that are grown by the men are taken home with them eachevening and eaten at dinner time. (The Japan Times)
日本語

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住宅街                                            ;      従業員 住宅
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 「今から二十年前には家賃が高かったこともありましたので住宅を作ったならぱ、従業員の方々にも多少は楽になって貰えるだろうと思って、 一軒二軒と増して行ったのが今の様になったのであります」(「講演概要」) 16
1918年(大正7)  工場操業開始 17

関東大震災以前の工場。ガラス張り、鉄筋コンクリート製の斬新なデザイン。
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 吾が工場も建築部員の熱心なる努力により工事予定以上に進歩して、 東京より日毎に五、六台の馬力で機械の運搬やら付属品材料に至るまでことごとく移動し終わり、 取付作業も済んでいよいよ作業に取り掛ったのは丁度大正八年の九月下旬であった。
 一方住宅設備も朝に一棟夕べに一戸と軒を並べて漸次増築され、 従業員の移住もまたたく間にはかどり諸般の設備も大抵整った・・・(「吾らが村」T.T生)
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1920年
(大正9)
黒澤幼稚園設立 20

(左から三人めの大人が貞次郎)
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 三月二十六日第二回卒業式が十時から開かれました。 園主黒澤氏より大略次の様な御話しあり。
 皆さんは風の日も雨の日も耐え忍んで元気で仲良く、よく遊びよく学ばれて今日の芽出度い日を迎られた事は実に喜しい次第です。 この後は今までより一層に元気で、遊ぶ時も学ぶ時も一生懸命で全力を尽して事に当たって下さい。そして何事に就ても一番となる様に努力し、 善い人となり社会に奉仕して戴きたい。尚時折り幼稚園へ遊びに来て楽しく学んだ事や先生の慈愛を何時までも何時までも忘れない様にして下さい。 (「黒澤幼稚園卒業式」K・H生、「吾等が村」より)
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自力で水道建設、工事の陣頭に立つ 24
 矢口に黒澤村が開設されて、第一番の問題は井戸水の水質が悪く飲用、 洗濯用共に難渋した為、多摩川の近くの原村に水源を求めて水道建設の工事までも行わねばならなかった。 (「くろさわものがたり」) 25
 ・・・が唯不便を感じたのは飲料水であった、当時は工場の中間と舎宅の中央に二個の掘井戸があって、 飲用水としてはこれをろ過して使用したのである。後、浴場と食堂へはこの工場の井戸のかたわらに高さ九尺ばかり約五石入のタンクを設け、 手押のボンプを据へ朝から晩までがちゃつかせ給水したのである、これが抑々水道の初めで、 いくら寒中でも熱い湯には入れないから裸体で飛出てはがちゃがちゃやったものである。
この間とても吾等が村長は、あるいは水質の検査を受け、掘抜を試み失敗を繰り返しつゝ研究を続け、元より満足に休む暇などなかったのである。 (「吾らが村」T.T生)
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1922年 (大正11) 12月、原村に堀り当てた井戸から埋設鉄管を通して、 村の貯水槽まで良質の水が届いた 27
 ・・・村長は尚且つ何処の方面より如何にして吾等が村に良水を豊富に給せんかと、雨の朝、風のタベ、いささかも念頭を離れず、顎を捻りて、 或は池上方面、或は古市場、或は丸子方面と踏査を続け水の研究に昼夜没頭の有様。
「昨晩は素敵な水の出た夢を見たよ」と云う御話を伺ったのもこの頃であったと記憶する。
忘れもしない昨十一年の三月十八日と覚えている、篠突く雨の中を腰から下は濡れ鼠、膝から下は泥まびれ、 ハンカチを絞り顔を拭きつゝ帰って来て稀に見る笑を浮かべ「今日はいよいよ水源地を決めて来た、今少しの辛抱だ、遠からずよい水が来るよ」 と大機嫌抑々。これが玉川の堤近き矢口発電所の上数百間、現在間断なく送水している水源地であったのである。 (T.T生)
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貞次郎自ら働く(右端) 水道完成 (一段目右端に貞次郎) 29
 その後着々と準備を整へ、竣工を急ぎ十月十二日より目出たく井戸堀に着手し、 昼夜兼行、あるいは降雨に崩され、あるいは堀り過ぎて数日間の努力を徒労に終らしめ、 ようやく堀り上ったのは大正十一年十一月五日頃である。
同時に貯水池としては四年前周壁を築造したまゝ中止したるを復活せしめて、新案を施し改良を加え、また、 かたわらに大タンクの建造を見ました。
一方水源地よりは一折二折、里道に添って鉄管を埋め、送水室を造りモーターポンプを取付け、 十二月二十四日初めて仮貯水池に水を送って来たのである。しかして大貯水池及び大タンクは漸次作業を進め、 またタンク脚部には揚水装置施され、揚水された水は五十尺の高空より各所へ送水されるのである、また附近一帯はあるいは樹木を植え、 芝生をもって囲み特に清浄なるべく意を用いられついに本年五月二日全く落成したのである。(T.T生)
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 そもそも蒲田の地は従来飲料水の不良をもって知られ、これが唯一の欠点とされて居ったのであります。工場主はつとにこれを憂い、 いかにもして良き水を導いて村人に供給せんものと、日夜苦心惨たん、研究に研究を重ねること数歳、或は炎熱焼くがごとき日、 泉の汗に浸りつヽ、六郷河畔を調査し、或は厳寒肌を裂く日、泥中に膝を没しつヽ大井の原を探渉し、遂にその真心神に通じ、 吾等が村より程遠からぬ多摩川の流域に水晶のごとき泉を堀り当てたのであります。
 私共村人の喜びは申すまでもありません。 丁度大陸の沙漠を旅行する隊商がこんこんと湧き出る清い泉を探し当てた時の喜びでありましょう。 (「吾らが村」村人Y)
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1923年 (大正12) 給水タンク、各戸への配水管工事の完成は5月2日のことであつた 32

 Years ago when the Tokyo City Water Works was not yet supplying water to residents in Kamata. Mr. Kurosawa spent 10,000 yen to have an infiltration well constructed at Tamagawa, some miles away and to lay a water main to his factory.(The Japan Times)    日本語

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給水塔

住宅街水道栓
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 今度の水道工事では話の種がなかなかある。良水を飲ましたいと且那様の御心配は一通りではなかった。 日頃の性急(せっかち)にも似ず今度の工事ぱかりは始めたり、休んだりして随分長い年月を要した。
 思い出せば大正八年の夏に大貯水池の周壁が厚いコンクリートで出来た、するとそのまま敷も仕上げずに三年も捨てて置く。 大正十年正月の仕事始めに大タンクの「遣り方」を出したがこれもそのまま朽るに任せて、 新規蒔き直しに又々「遣り方」を出して本気に建て始めたのは十一年の春である。基礎も出来、 第一層の柱が建つと一階の床も打たずに半歳から放って置くという有様で実際僕等は不思議に堪えなかった。
 で.雨降りになると現場の指図もなさらずに姿を隠してしまい、びしょ濡れになってはお帰りになる。しかして口癖の様に 「今に良い水が来る、もう少しの辛抱だ」といわれるのであった。実際妙な感じがしたよ、けれどもこれは降雨中の多摩川の水勢、 清濁の程度、増水の模様、沿道の勾配等を研究なされたことが後で判った。
 あわせ去年の九月からは「馳足行進」で仕事が始まった。三日間づつは必ず前以て工程が与えられた、タンクは日々高くなる、 水源地には穿井される、鉄管は村道に沿って埋設される、揚水室は出来る、旦那様は自転車で走り廻る、 実際目の廻る様な活動振りを続けて今回落成したのである。その間、且那様は土地の買収、地質、水量、揚水、送水、 給水その他設備の設計で恐らく寝るひまもなかったのだろう。
 永い間、工事を始めたと思うと直き止めたのは万端の計画が熟するまであせる心を制しかねてその一端が時々現われたのであろう。 日頃の遣り口と全たく違った遣り口で出来上った我が水道は旦那様の苦心の結晶であることが判る、 であるからお互に水を粗末にしないで少しなりとも節約して以前の僕等の様に 水に不自由の蒲田町の人に少しでも余計にやろうではないか。
(「水を粗末にするな」建築生)
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  浴場                                                                                  ポチャポチャ池
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1923年 9月、関東大震火災、地層の液状化現象が起こり、蒲田工場倒壊  38
 かの関東の大震災の折がそうでありました。私の所では皆の者が散り散りにならず一つ所におりましたので、 直に集ることが出来、翌る日から自分達の工場は自分達で作ろうと云う決心になりましてこの工場が出来上ったのであります
(「講演概要」)
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 食堂棟建設中 40
1928年 復旧工事は自力で、従業員を総動員し完了 41
新工場  42
 御覧の通り多分に素人臭い所が御座います様に、これらの建物は自分で材料を購い自分で 柱を立て屋根を葺いて出来たのであります。
(「講演概要」)
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  この工場は基礎工事に出来る丈の費用を投じ屋根は嵐に耐え得る程度に軽くした、地質の悪い所だが普通の地震は感じない、 中地震は多少工場全体がゆれた程度に感ずる、大地震でも壊れない、「岩の上に建った家ですから風雨にあっても壊れません」と聖書の話をされた。 (黒澤工場見学 御木本美隆) 44
 特別な主人室はない、工場の一部に黒澤さんの机が置いてある丈である、背後には戦没工員達の写真が掛けてあり、 黒澤商店の歴史を語る多くの写真も壁にある。・・・
・・・工場内部は整然と整頓がゆき届いてほこりも屑も無い、機械は磨きたてられピカビカ光っている。主人が中を歩いても誰も見むきもしない、 しかし別に忙しい様にも見え無い、我々の目にも良い仕事をしているという事が判然わかる。工場内部は禁煙である。 機械は危険防止の為金網で安全装置がほどこされている。(黒澤工場見学)
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 私の道楽は機械道楽ですという、無駄な機械は買わないが、必要ならぱ唯一つ世界最高のものを買い、 どの機械を見ても世界一流のメーカーのマークが入っている。ここでは主人も工員もない、部長も係長もない、 肩書がなんであろうと皆自ら体を動かして働いている。(黒澤工場見学) 46
 食堂(旧工場)   食堂(新工場) 47
  私の工場には食堂も御座いますが、近くに住宅を作ってありますから家に帰って一家団らんのうちに食事を摂ると云うことは家庭愛の上から申しましても、 誠に結構なことゝ存じますが、この食堂で一同が一緒になり、ささやかながら昼食をすると云うことにも、一にはお互いが苦しかった昔を偲ぶよすがにも、 又一にはお互いの親密を増すためにも幾許かの効果はあるだろうと思ってやって居ります。(「講演概要」) 48
 昼食は上下共に大食堂で一品料理を食する、風月堂のコック長が紹介した現炊事係は工員の為に美味かつ栄養豊富な食事を供する。 (黒澤工場見学) 49
 食堂のチーフ小出さんのカレー、メンチカツ等の美味しかった事、今でも同窓会等で集まった時に、 食堂のカレーの話が出て、どんなに美味しいといわれるカレー屋さんのカレーでも、 あの小出さんのカレーには、かなわない味だと、皆あの味を懐かしがっております。食堂のカレーは前もって頼んでおくと、一杯二十銭で 売ってくれたのです。
  お鍋をもって食堂に行くと、こげない様に二重になった大きな鍋から、大きなおたまで一杯、鍋に入れてくれるのです。このカレーの時は、 何杯もごはんのおかわりをして、母にお腹をこわすと叱られたものです。
 黒沢のお父さん達は、子供の為に、カレーのほか、美味しいカツ、メソチカツ、親子丼等の時には、家に持って来てくれたのです。 それを皆で分けて、美味しく頂きました。又それが、私達の楽しみでもあったのです。
( 「我が黒澤村想い出ばなし」 水戸幸子)
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 工場の時計は五分間遅らせてある。震災の時に時計が五分遅れていたために工員達は食事に行かず手を洗っていた、 その為多数の人員が助かったから、あわてるなと言ってあるのを記念して時計を五分間遅らせてある。
 「私は商品を作る機械を大切にします、然し機械を動かす機械(人)はもっと大切にします。」 (黒澤工場見学)
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1929年  黒澤小学校完成 52

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黒澤幼稚園(新)

(右から二人めの大人が貞次郎)
 「私は小学校も中途にして、働かなければならぬ境遇に置かれました関係上、自分等と一緒に働いてくれる方々の子弟をして、 かつて私がなめた様な苦杯を喫せしめたくない、どんなことがあっても小学校だけは満足におえさせて上げたい、 この様な考えから学校を作りました」(「講演概要」) 54

・・・, he has had a modern school constructed with money from his own pocket. This institution will become a kindergarten and a primary school.It is a school for the children of employees, but it is one to which members of the best families in Tokyo can proudly send their children. The building is one of the most up-to- date structures in Japan. Its teachers are experienced and specially selected instructors. Its playground is spacious. (The Japan Times)

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講堂

教室、来客。右端が貞次郎
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木の香りとペンキの匂いのする教室で、私達生徒、一年、二年、三年の三クラスだけの授業が始まりました。グリーンの黒板、 一人一人の机と椅子、何もかも新しく、わくわくしながらの毎日の通学でした。
 講堂や廊下の窓の柱には・・・いろいろな木の標本と、いろはかるたの小さな額がかかり、かるたの英訳文が書いてありました。時折おとずれる アメリカのお客様を案内された、旦那さんが、一つ、一つのかるたを英語で説明されていらっしゃったお姿が目にうかびます・・・五年生の教室の 壁にはってあったハガキはアメリカの発明王エジソンから旦那さんに来たものでした。エジソンからハガキが来るなんて、旦那さんは偉い人なのだと 子供心に思ったものです。(「想い出ばなし」水戸幸子)
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 ・・・教室の前の廊下は児童の好奇心を煽るベき別天地である、ここにはテーブルが作業台となり、あらゆる小道具が備えられ主要木材や鉄鋼材及ぴ 非鉄金属の標本やスターレットエ具や職業教育の資料が具備して一小工業学校となっている。特に変わっているのは、講堂内一面に、 大型のいろはカルタを額縁に入れて掲げてあることである。黒澤氏は次の如く説明された。
 「いろはかるたは非常に善いものですね、永いながい経験が織り込まれておりますから・・・外国を学ばなくとも昔のいろはがるたをよく味わえば 大人物になれるものと私は信じております。」
 「ゆだん大敵」、「ちりもつもれば山となる」、「びんぼうひまなし」、「道は近きにあり」ですね。
(ROTARY WHEEL)
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 ・・・私はこれと云って特に遠大な計画とか又は大資本と云う様なものは持って居らないのであります。 かような呑気な漫然としたことでよくもこれ迄やって来られたものだと自分ながら驚きもし感謝も致して居ります。 言わば一粒の良種が幸いに土地を得て温き時の恵みに依り芽をふき、それが従業員諸君の心からなる丹誠に依り、 年と共に成長致しまして苗となり木となり枝を張り葉を付けて御覧の通りの梢々大木となったのであります。
(「講演概要」)
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